いなり寿司

発端

「こういうところ初めて」
「回転寿司って来たことないの?」
「女一人で来にくいもん、ほら絵にならないでしょ」
「そう言えばそうだな」
「そーゆーこと」

「どうしよう、あなたのとったお稲荷さんもおいしそう」
「なんか、俺とデートだって言うこと、忘れてない?」
「ごめん、おいしいものに目がないの……あれ?」
「なんだい?」

「あなたって、もしかして……」
「なんだよ、マジな顔して」
「今、おいなりさんに、お醤油つけた?」
「ああ、それが、なにか?」

「わからないの?」
「なにが?」
「あなたがやったことよ!」

「やったことって………醤油つけたこと?
 ふつうお寿司にはつけるだろ」
「でもあなたはいなり寿司につけた……」

まわりでひそひそ声がする。
「ああいう人がまだいるのね」
「しばらく見かけなかったがナ」
「怖いよ、お母さん」
「大丈夫よ、こっちには来ないから」

「俺は、野獣か」
「あなたはそれ以下よ」
「ちょっと待ってくれ、俺のやったことはそれほどなのか」
「そんなこともわからないなら……おしまいよ」
「おしまいって……なにが?」
「あなたとわたしのこと……」
「おいおい……そんな……」

パトカーのサイレンが近づいてくる、
それは店の前で止まった。
ばたばたと走ってくる音。

「どこにいますか?」
「この人です」
彼女が俺を指差す。
両腕をつかまれて、俺は身動きが取れない。
「ご協力ありがとうございました」

「なんでおまえが俺を………」
「ごめんね、私、普通の生活がしたいの」

連行

パトカーに連れて行かれる途中、
店の中から彼女が泣き声をあげるのが聞こえた。

「あーあ、かわいそうだよな、こいつのために」
「そうだけど、こればっかりはな……」

一瞬の隙を見て、逃げ出した。
追いかけてくるが、足の速さだけには自信がある。
とりあえず、まいた。
わけもわからず、歩いている。

「本日午後2時30分頃、
 江東区亀戸の回転寿司、大江戸で、
 若い男が……」

あれ、さっきの店じゃないか、これ。
電気屋のテレビを見る。

「いなり寿司を醤油につけているところを、
 多数の人が目撃しております。」

なんでNHKのニュースでこんなに大きく。

「なお逃走中の男は、近辺にいる模様で、
 非常線を張って捜索中です」

「この件について、
 西川女子短大の山岡教授に伺います。」
「先生のご専門は心理学ですが、その立場から
 今回のこの事件はどうご覧になりますか、
 教えてください。」

「そうですね。
 この男の成長過程にとても興味がありますね。」
「といいますと?」

「つまり、常識であり犯してはならないことを、
 公衆の面前で普通に実行したこと自体が、
 この男の中に、罪の意識がなかったことを
 示しているんです。」

情報提供を求める電話番号がテロップで流れる。

「レアケースというべき珍しいことですが、
 様々な理由により本当に知らなかった、
 という事例もあります。」
「そんなことがあるんですか?」
「はい、私の研究室での統計では
 2例報告されてます」

いちかばちか携帯で電話を入れてみる。

「ということは……
 あ、ちょっと待ってください、
 その男から電話がかかっているようです、
 先生と代わって欲しいと」

「さきほど回転寿司にいらした方ですか?」
「そうです」
「私をご指名というのは?」
「私の成長過程を問題にしてましたよね?」
「はい、そのとおりです」
「わたしが罪の意識がないのは、
 学習しなかったからだと」
「その可能性があると申し上げました。」

ここまで話したときに背後から羽交い絞めにされた。
逆探知されたようだ。

「たった今、男が逮捕されました。
 なお、この件につきましては
 詳しいことがわかり次第、細かくお伝えします。
 次のニュースです。」

拘束

俺は留置場に入れられ、取調べが始まった。

前にも同じ事をしたか、
どういう理由でやったのか。
他に同じ事をしてる仲間がいるのか。
同じことを何度も違う訊き方で。

俺は、完全に黙秘を通した。
何を言っても無駄とわかっていた。
世の中が、俺の知らないところで変わっていたようだ。

ある日、弁護士がきた。
頼んだ覚えもないし、
親はすでに俺を見離して、面会にも来てないぐらいで。

「初めまして」
「初めまして。
 でも、どこからの依頼なんですか?」
「あのニュースのあと、かなり大きな反響がありました。
 知らずに犯した罪で裁くのは人権侵害という意見が
 かなり寄せられまして‥‥‥
 私はある人権擁護の団体から依頼を受けて参りました」

復帰

というわけで、この団体の政治的圧力もあって、
俺は刑務所に入らずにすんだ。
そのかわりに、例のニュースに出てた教授の指導を
受けることになった。
毎日毎日、勉強そして勉強。
学ぶべきことは多く、
知識不足のまま人と接していたことが、
実感される日々だった。

俺はまともな人間になった。

そして社会に復帰したとき、そこには彼女が
待っていた。
俺は何も言わず彼女を抱きしめた。

それだけで十分だったし、
余計な言葉も要らなかった。

新生活

「新聞とってくれる?」
「はい」

「へー」
「何があったの?」
「きのう、新聞をテレビ欄から見た奴がつかまったってさ」
「そこまでやれば当然ね」
「ちょっと救いようがないね」

「はい、コーヒー」
「ありがとう」
「うまいね。やっぱコーヒーはブラックもいいけど……」
「赤穂の塩がベストマッチングね」

トーストにバターを塗り、マーマレードをのせて……
なんか視線を感じる。
目を上げると、彼女がこちらをじっと見つめていた。

「あなた、今……バターの上にマーマレードを……のせた?」

FIN

2003/09/22