ひまわり part.1


彩乃は珍しく、その家の前でしばらく立っていた。
夕方の陽差しを顔に受けたまま、
影絵のようにくっきりとしたシルエットを見せる家を、
じっと見つめていた。

ようやく落とした視線の先には、高村と書かれた表札。
門をくぐると、両側に背の高いひまわりが並ぶ。
夏の間ずっと咲き誇るその姿を、
彩乃は何度も画用紙に描いた。大好きな景色だった。

かすかに傷ついた個所まで知ってる、見慣れたドア。
いくつかは自分の手でつけたもの。

どこからか、ヒグラシの鳴く声が聞こえる。

少しのためらいのあと、
意を決したように、ドアの横のボタンを押す。
扉の向こう、家の中でチャイムの音が柔らかく鳴り響く。

いつもなら勝手にドアを開け、
「お兄ちゃんいる?」と大声でどなって、
さっさと入っていた彩乃が、今日だけは違っていた。

誰も出ない。
ドアノブを握り、ためしに引いてみた。
スッと開く。鍵は掛かっていない。中に入る。
そこに見慣れた茶色のキャラバンシューズがあった。
いる。

「こんにちわ〜」
とりあえず声をかけたが反応がない。

靴を脱ぎ、手でそろえてから、階段を上る。
上がってすぐ右の部屋。
ノックをした。

静かな家に、予想外の大きさでその音が響き渡る。
その余韻が消えた次の瞬間、
室内から「ガサッ」と小さな音がした。

ドアを開ける。

「お兄ちゃん……」
彩乃の言葉はそこまでで飲み込まれた。

壁に背中をもたれ、足を前方に投げ出し、
灯りもつけずに薄暗い部屋の中、
ベッドの上に男が一人いた。
そしてその目は、うつろに開かれたままで、
何の感情も表してはいなかった。

かすかに開いたカーテンの隙間から、
西日がこぼれ、顔にあたっているが、
まぶしさも感じてはいないようだった。

いつもの、あの明るさはかけらもない。
人形のように無表情に中空を見つめたまま、
彩乃を見ようともしない。
その姿に彩乃は立ち尽くしたままだった。

---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---

ちょうど2年前、彩乃が中学1年のときだった。
勉強を見てもらうあいまに、
この部屋で聞いたことがある。

「あのさ」
「ん?」
「あ、あの、正直に答えて欲しいんだけど…」
「俺はいつだって正直だぞ?」
「そう言う意味じゃなくて」
「あやっぺ、なんか意味不明。熱でもあるのか?」
「……」
「わかった。わかったから、そんな怖い顔するな。
 どんな質問でも、しょ〜じきに精魂込めて、
 お答えいたしましょう!
 三浦彩乃様。では、質問をどうぞ!」

「………ねぇ、私ってさぁ」
「聞いてます」
「え、え、え〜と だからさ、
 高村浩史っていう男にとって、私、三浦彩乃は〜」
「彩乃が?」
「……………三浦彩乃は…どういう女なわけ?」

つっかかりながらも言い終えて、彩乃は大きく息をつく。

「つまり… 俺と彩乃の関係ってこと?」
「うん、それ」

考え込む高村。そして顔を上げる。

「まず第一に、ご近所だな」
「うん、まあね」
「第二に、勉強を教えたりする、先生と生徒の関係だな」
「そう… だね」
「第三に、とってもかわいい妹だ」

「……………」
「あれ? なんか、不満?」

「そ、そうじゃないけど」
「けど?」
「あの、あの、 例えばさ。 ……例えばだよ?
 その〜 彼女…とか、恋人…とか…さ。
 あるじゃない?」

「あやっぺが? 俺の?」
うなずくのが精一杯の彩乃。

突然高村は笑い出す。
笑いの発作に次々と襲われ、
ひきつけたように体をゆする。

「ヒ〜、ヒ〜、 たまらん〜!」
「な、なんでそんなに笑うの?
 むかつく〜、なんかすごく」
「ごめん。でもさ、やっぱ笑っちゃうよ、それは」
「どうして?」

「だってさ、俺が高校2年であやっぺが中学1年。
 おまえ、去年までランドセルしょって、
 小学校行ってたろ?
 正真正銘、バリバリのおこちゃまだったんだよな」

「だいたい、いくらなんでも、
 その未成熟のボディと、未発達の知識じゃ、
 あやっぺが俺の彼女になろうなんて、
 10年はやいと思わない? どう考えても」
 
「未成熟……って?」
「下見てみろよ」
いわれるままに下を見下ろす彩乃。
今日は、
キャラクターTシャツとミニスカートの組み合わせ。
彩乃のお気に入りのセット。

「ベルト、何の問題なく見えるだろ?」
「見える… けど?」
「そういうことだ、立体感に欠ける状態なんだよ、まだ。
 中身もそれにふさわしい状態なんで。
 ま、トータルで『女』とは、
 言いがたいレベルにあるわけだ」
「………」

「ま、大学受験で言うなら足切りラインの下、
 ってとこか?
 いや、おまえが悪いんじゃない。
 これから大人になろうっていう、
 そう言う時期なんだよ。
 つまらない背伸びはしないで、
 今は勉強しといた方がいいぞ。
 な?
 じゃ、明日の分の予習、始めるぞ」

---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---

そんなことがあった翌年。
彩乃はひとりの男の子と付き合うことにした。
ラブレターを貰って、結構いい感じのコだったから。

しかし彩乃の本心は、
恋のかけひきを実践しようとしての行動だった。
彩乃の頭の中でのシュミレーションでは、
これで高村の嫉妬心がメラメラと湧き起こるはずだった。
100%まちがいない! 彩乃は確信していた。

しかし、高村にそのことを告げた日、
「お〜 それはよかった。恋することはいいことだ。
 うんうん。
 ガンガンいけ! 妹よ」
と頭を撫でられて終わってしまった。

とても喜んでるその表情を見て、逆に彩乃は、
奈落の底へと落ち込んでいく自分を感じていた。

いまさら言ったことを取り消すことも出来ないまま、
初めてのデートの日が来た。

しかし彩乃が恋愛ゴッコに飽きるまでには、
たいした時間はかからなかった。
同い年では、あまりにも幼すぎて物足りない。
お兄ちゃんと話してるときのほうがよっぽど楽しい。
デート開始から1時間後に、彩乃は結論を出していた。

結局、その日の帰り、家の前で、
今後付き合うことはできない、
と彩乃は高らかに宣言した。
そのまま彩乃は振り返りもせず家に入る。
残された男の子は狐につままれた顔で立ち尽くしていた。
なぜそんなことになったか、わかるわけもなく。

次の日から、彩乃は豆乳を飲み始めた。
そして鬼のような勉強を始める。
すべては高村と対等の女になるために。

---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---

中学3年。
春、高村は予定通り国立大学に進学した。
近くの大学なので、自宅から通ってはいたが、
彩乃は、二人の間が、
とても遠くになってしまったように感じていた。

努力の甲斐もあって、志望校はAランク評定をキープ。
念願のボディの3D化は、今ひとつうまくいってないが、
いずれということで希望はある。そう信じることにした。

だがそんな彩乃の希望は、
偶然の出来事によって無残にも打ち砕かれた。

「カナダに転勤することになった。
 急な話だけど、彩乃も一緒に行ってくれるな?
 いくらなんでも、
 中学生を一人で日本に残すわけにはいかない。
 親戚もいないし。
 友達と別れるのはつらいだろうけどわかってくれ」

家族と一緒にカナダへ。
おそらく数年間は日本に戻れないのだろう。
泣きたい気分だった。

一ヶ月の間、彩乃は悩みぬいた。
しかし中学生に出来ることなど、当然何もなかった。


明日は出発しなくてはならない。彩乃は決意した。
荷物もない閑散とした家から抜け出し、
そして今、彩乃はこの部屋に来ている。
大好きな「お兄ちゃん」に、別れを告げるために。

---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---

部屋はアルコールくさかった。
テーブルの上には、
ビールの空き缶がたくさん転がっている。

足を踏み出した瞬間、彩乃の足に痛みが走った。
しゃがみこんで手にとってみると、
足の下にあったのはイヤリングだった。
小さなトパーズの木の葉が揺れる綺麗なもの。
決して高いものではないと思う。
でもとても可愛らしく見える。
そばには、小さな箱とリボン。
両方とも、ずたずたにひきちぎられて。


「なんか、大学で彼女が出来たみたいで。
 今日もデートみたいだけど…
 聞いてない? あのコから」

この間おばさんと話してたことが彩乃の脳裏に蘇った。

「え? あ、そういえばそんな事言ってたかも。
 うらやましいなぁ、お兄ちゃん。
 私も受験終わったら彼氏作ろう!」
「そうね、そうしなさい」

イヤリング。そしてベッドの上に見える表情。
たくさんの空き缶。
彩乃は全てを理解した。

今日は、明るい顔でさよならを告げて、
自らの手で、自分の恋に終止符を打つためにここに来た。
でもその自分の大好きな人が、目の前で苦しんでいる。
そして、その傷ついた心を和ませる時間は、
もう自分には残されていない。

あまりにも不条理な状況に、
忘れようとしていた思いが、
彩乃の胸に切なくよみがえる。

私は、この人が好きだ。 …忘れたくなんかない!

ゆっくりとベッドに近づく。酒の匂いが強くなる。
ベッドの上に乗った。
彩乃は高村の肩をつかみ、そしてキスをする。

長く、あふれる思いを込めて。
二度と合えないお兄ちゃんに。

どうして?
どうしてファーストキスがお別れのキスなのよ!
ひどいよ。こんな不公平なことってないよ!
絶対ヘンだよ!

唇を重ねている間ずっと、心の中で叫び続けていた。

やっと唇を離す。

目の前に彩乃がいても、まったく焦点が合ってはいない。

「お兄ちゃん、さよなら。
 大好きだったよ… ずっと… ずっと…」

彩乃の目からは涙があふれようとしていた。

そのとき、先ほどまで宙をさまよっていた目の焦点が、
彩乃の顔に合う。

「あ、気づいた?」
「さよ…  なら?」
「うん、もう会えないんだ、お兄ちゃんに」

「なんでだよ! なんで俺を一人にするんだよ! やだ」
その言葉とともに高村は彩乃を強く抱きしめる。

「お兄ちゃ… ん。ダメだよ。く、苦しいよ」

高村は彩乃の胸に顔を埋めたまま、
肩を震わせて泣いていた。

「お兄ちゃん… そんなに… 悲しいんだ…」
「……」

崩れ落ちるように、高村は彩乃の膝に顔を伏せる。
子供のように泣きじゃくったまま。

傷つき、悲しみの淵にいるこの人のそばにいて、
なぐさめる言葉も思いつかない。
今の私にできることなんて、なにも……………

彩乃は高村の肩をつかみ、起こした。
そして正面からその顔を見据え、
手を取り、それを自らの胸に押し当てた。

その感触に気づいて、
あわてて引っ込めようとする高村の手を、
彩乃はありったけの力で引き止める。

「抱いて…」
「!」
「お願い… お兄ちゃん…
 今の私にはこんなことしか…」

彩乃は力いっぱい高村を抱きしめる。再び唇を重ねた。

垂れ下がっていた高村の両腕が、
ゆっくりと彩乃の背中にまわされていく。

つかのま抱き合い、キスを何度か繰り返したあと、
二人はもつれるようにベッドに倒れこむ。

こうしたかった。ずっと。こんなふうに。
たとえ明日、
この人が全てを忘れてしまっていたとしても、
私が、大好きな人に愛されたことに変わりはない。
彩乃は心からそう思った。

彩乃の服が高村の手で乱暴に脱がされていく。
野獣と化した高村を押しとどめるものは、
すでになにもない。
彩乃はただ目を閉じ、恥ずかしさを耐えていた。

彼女はもう、怖れてはいなかった。
あるのはただ、幸せ、だという思いだけ。
愛されているという実感の中に彩乃はいた。

next