拓実

1.

「杉田君。ちょっと来てくれる?」
「ハイ。すぐ行きます」
外回りから戻った早々、課長に呼ばれる。

隣の西山がオレを見ながら小声でたずねてくる。
「こんどは何やったんだ? 和弘」
「いや… 別に… とりたてて」
「それにしちゃ課長の雰囲気、いつもよりヤバめだぞ。
 ほんとに記憶ないのか?
 まずい。こっち見てる。早く行け」

課長の席に行く。

きちっとしたアイボリーのスーツ。
控えめなイヤリング。肩までのストレートヘアー。
端正な顔立ち。メタリックフレームの眼鏡。
そう、そこにいるのは女。

「この見積もり、あなたが書いたものよね?」
A4の紙が手渡される。中身には見覚えがあった。
出かける前に課長の机の上に置いといたやつだ。

「はい、そうです」
「じゃ、ここってどういう意味にとればいいの?
 説明してほしいんだけど」

指のおかれた個所をじっくりと見る。
特に間違ってる風もない。
そう思って見上げると、視線はまっすぐにこちらを向いていた。
その唇がゆっくりと動く。

「で? どうなの?」
口をついて出てきた言葉は、その表面上のおだやかさとはうらはらに、
絶対零度の冷たさにくるまれていた。

「あの… 別に… 問題は…」
「問題ないと、ほんとに思ってるわけ?」
まずい。怒ってる。

「じゃ、ここって普通、何を書く欄かな?」

え? どこ? あぁ、ここね。ここは…
オレは青くなった。営業経費を書く欄。
通常は小計に対し、15%とか20%とかを掛けてあるところ。
しかし、目の前の見積書ではゼロになっていた。

「杉田君って、ボランティア好きだったっけ?」
「……いえ」
笑顔が怖い。

「でも、これじゃあなたの給料、会社としては払えないわね。
 だって営業経費ゼロじゃ。
 あなた、タダで働きたいって言ってるようなものよ!
 わかってる?」

「すみません!」
ただひたすら頭を下げる。紛れもないチョンボだった。
胸の奥をえぐるような容赦のない言葉が、延々と続く。

5分後。

「あぁ、いけない。次の予定が…
 もういいわよ。行っても。今度から、充分気をつけてね」

「一軒寄って直帰するので、あとはよろしく。行ってきます」

つむじ風のように課長が通過し、ドアが閉まる。
ピンと張り詰めた室内の緊張が一気にゆるむ

気を取り直して、オレは見積書をもう一度作成した。

「ほい、お疲れ。まぁ飲め」
西山がコーヒーを持って来てくれた。
「サンキュ」
「しかしなんで、ああも課長はおまえに厳しいんだ?
 なんか前にあったのか? 尋常じゃないぞあの怒りかたは」

「別に…」
「う~ん。それも変だな。
 だいたい石崎さんって、上に対しては噛み付くこともあるけど、
 下のもんにはあそこまでしないよなぁ、ふだん。
 結構面倒見がいいって、他のセクションでも評判の人だしな」

見積書と営業報告書をプリントアウトして、課長の席に置く。

「それで終わりか? じゃさ、久しぶりに飲みに行こうか」
「…わるい。今日は帰る」
「なんか、最近付き合い悪くない、和弘クン?
 さては…… 彼女が出来たのかな~」

「……また、こんどな」
「わかった。わかりましたよ。んじゃぁ~」

次の瞬間、西山は同じ課の女の子を誘っていた。
同期の中では一番の営業力は、今ここでも発揮されようとしていた。
こいつ見てると、その性格がうらやましくなることもある。

タイムカードを押す。
「お先に失礼します」
「じゃあな」

ドアを閉め廊下に誰も居ないのを確かめてから、長いため息をつく。


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部屋に明かりが点いているのが、道路からも見えた。
拓実、今日は早かったようだ。
暗い部屋に一人で帰って電気をつける瞬間というのは、
ある程度慣れることは出来ても、やはり寂しいもんだ。
だからこんなふうに、誰かが部屋の中に居るのは素直にうれしい。
特にオレの帰りを待ってくれているなら、なおさら。

鍵でドアを開け、中に入る。
「ただいま~」
「おかえりなさ~い」
見えないところから拓実の声がした。台所だ。

食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。

「いまちょっと手が離せないの。
 もう少しでごはんできるから、シャワー浴びちゃって」

キッチンに向かう拓実の後ろ姿が見えた。
後ろから抱きしめ、首筋にキスをする。

「あっ、やだ。やめて… あぶない」
無視して反対側の首筋にも。

「だめだってば、もう」
怒って、こちらに向き直る。
「あのねぇ、今は」
うるさい口を唇でふさぐ。
抗議しようと、ウグウグと唸ったのはほんの数秒。
オレの背中に手がまわされ、しっかり抱きついてくる。

なんか、こげくさい…
あわてて唇をはなした。
「拓実! やばい!」
オレの言葉に余韻でボーっとしていた拓実が振り返る。
鍋から煙が。

慌ててレンジからフライパンをおろす。
「んもう、なんでこうなっちゃうの~」
こっちをにらむ。
「ごめん。でも大丈夫。食えるよ、ほら」
中身を指でつまんで口に放り込む。ぎりぎりセーフだ。
もうひとつまみつかんで拓実の口に入れる。

「…まぁ、なんとか食べられる範囲かな。
 でも~、おいしいのをカズちゃんに食べてもらいたかったのにィ…」
「心配いらないよ。拓実が作ってくれたのなら何でもおいしいから」

拓実の顔が赤くなる。


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「お誕生日おめでとう!」
「ありがと」
ふたつのワイングラスを軽く触れる。
今日はオレの24歳の誕生日。
拓実は仕事をやりくりして、手作りの食事で祝ってくれてる。

「じゃ、これ」
拓実が小さな包みを差し出す。可愛いリボンが掛けられている。
開けてみたらクラッチバッグだった。
今持ってる奴のファスナーが壊れかけてたのを、
会社でしっかり見られていたようだ。
「ありがと」
テーブルを回り込んで感謝のキスをした。
「へへッ」
うれしさを隠そうとしない。

オレが席に戻ると、言いにくそうに拓実は話し始めた。

「あと…… カズちゃん、きょうはゴメンネ」
「え? なにが?」
「だから… 会社で…」
「……あぁ、あれ? 別に、なんとも」
「ほんとに?」
「バカだな拓実は。
 あんなの気にするくらいなら、おまえと付き合ってないよ」
「……よかった」
微笑むその顔がかわいい。

オレは単なるヒラの営業マン。成績はいまひとつ。
そして目の前の拓実・石崎拓実は同じ課の課長。有能かつ敏腕かつ美人。
年齢はオレより四つ上の28歳。

一緒に暮らすようになって、もう半年。

つきあうきっかけは、ほんの偶然だった。
ちょっとした事件があって、
結果としてオレが課長としての拓実の窮地を救った結果となった。

そして食事をごちそうになって、なんとなく話が合って、
考える間もなく、二人そろって一気に恋におちてしまった。

そしてわかったこと。
プライベートの彼女は、とんでもなくさびしがり屋で甘えん坊だった。
よく泣く。あきれるぐらい。そして不器用。
クールにとことん計算ずくで行動するあの仕事振りからは、
まったく想像も出来ない「おんなのコ」だった。

会社で見せる彼女の仕事上のキャラクターは、
高校・大学と優等生で通しているうちに、
後天的に形作られたものなんだろう。つまり第二の性格。

その証拠に、オレに対する時だけ、どうしても対応が狂ってしまう。
今日だって、上司としての立場で押し通せばいいものを、
途中から崩れそうになって、こらえようと必死になるもんだから、
かえって無茶苦茶なことになってしまって。
つじつまが全然合わなくなってしまう。

途中で一瞬かいま見えた泣きそうな表情。
それはこの部屋で見慣れた甘えんぼの拓実だった。


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子供のようなのは二人とも。

最初に結ばれた夜、
「帰っちゃいやだ~!」と泣きながら駄々をこねる拓実に、
ものの見事に負けてしまったのはオレ。
とうとう、そのままここで一緒に住むことになってしまった。

翌日、当座の着替えを取りに自分の部屋に戻ったとき、
座っていろいろと考えた。
で、結論。
好きなんだから一緒に暮らせばいい。
ややこしい理屈はいらない。答えは簡単だった。

思うに、こんな風に無計画なオレの性格自体が、
営業マンとしての伸び悩みの原因なのかもしれない。
なんとなくそう感じた。

そんなけじめのないスタートラインが、
彼女にとっていけなかったのかも知れない。


「聞いてくれる? 提案があるんだけど…」
「な~に、カズちゃん?」

食後のコーヒータイム。
カップを置いて、拓実は期待の目でオレを見る。


拓実は少し前から、オレに言っていた。
「私、仕事も好きだけど、今のまんまじゃカズちゃんに悪くて」
「どうして?」
「だって、お客さんとのつきあいとか会議とかいろいろで、
 一緒に住んでいるのにご飯もろくに作って上げられないし、
 家の中のこととかも、カズちゃんに負担かけてるし」

確かに、拓実の帰りが遅い日も多く、
コンビニのお弁当とか冷凍食品のお世話になることもしばしば。
きちんとした食事をとるのが普通の家庭だと信じてる拓実としては、
それがとても耐えられないらしい。
毎日の洗濯なんかもオレ。
といっても乾燥までやってくれる洗濯機だから、たたむだけ。
拓実が気にするようなレベルじゃない。

「私、ほんとにカズちゃんと一緒にいてもいい女なのかな……」
「な~に言ってんだよ」
「だってさ、カズちゃんがこんなに優しくしてくれるのに、
 私はなんにも…
 ただ甘えてるだけで」

こいつ、どうしてこんな勘違いをしてるんだろ。

夜中に目覚めたとき隣にぬくもりがあって、なぜかほっとした時とか。
腕の中で、安心しきって小さな寝息を立ててる拓実のようすとか。
おはようって言うときのうれしそうな笑顔とか。

こいつなしの生活に戻ることなんて、もうオレには出来ない。
拓実が気にしてるいろんなことは、
少なくともオレにとってはたいした問題じゃない。それだけは確か。

どうやったらオレのこんな想いを拓実に伝えられるか、
ずっと考えていた。


「オレたちのこと、もうしばらくみんなには黙っていよう?」
拓実は、そんなオレの言葉に固まってる。
「え、それって…」
ものすごく不安そうで、今にも泣きそうだ。
まちがいなく早とちりしてる。

「こらこら。勝手に先走りするな!
 ちゃんと説明するから聞いて。
 今の拓実には可能性がある。
 部長もそれを見込んでおまえを抜擢した。
 そして、拓実は課長の職責をちゃんと果たしている。
 だからもう少し、そんなおまえを見ていたい。そう思うんだ」

「それはわかるよ。
 でも私は、カズちゃんが仕事やめろって言ったら、
 やめてもいいと思ってるんだよ。だから」

「まだある。
 もうちょっと仕事が出来るようになってから、
 拓実に負けないくらい… って言うのは難しくても、
 ちゃんと営業マンとして一人前になってから、
 おまえと結婚式をしたいんだ。
 今の状態だと『逆玉かよ!』ってつっこまれるだろうし。
 これでも一応男としてのプライドあるから」

拓実はシュンとしていて、返事もしない。
期待していた別の言葉があったのだろう。

「わかってもらえたかな?」
「………」
「拓実? 返事は?」
「…………わかった…」
拓実は泣きそうだ。

「よし。じゃ、わかったという証拠にここにサインして」

カバンから書類を出して拓実の前に置いた。
拓実が手にとる。

しばらくぼんやりと眺めていた。
そしてぽろぽろと涙を流し始める。オレを見る。
「バカ!」

そう言いながら席を立ってこっちに来る。
力いっぱい抱きついてくる。
すわっている椅子が、二人分の体重に悲鳴をあげる。
なんとかそろって床に転げ落ちる事態だけは避けた。

オレの胸で子供のように泣きじゃくる拓実。
ちょっとやりすぎたか? オレ。
婚姻届にサインさせるだけのことに。

落ち着いた頃を見計らって拓実を引き剥がす。
「ほら、書いて」
「うん」


「書いた」
紙がこちらむきになってテーブルの上を滑ってくる。
俺も書いた。

「正式には、役所でこれが受理されると俺たちは夫婦、というわけだ。
 でも、オレと拓実の間では、たった今これが有効になった。
 ということで、拓実はまぎれもなくオレの奥さんだ。
 どう? 奥さんになった気分は?」」

「うれしい… すごく…」
「指輪とか結婚式はあとまわしだけど、いいよな?」
「うん!」
とろけるような笑顔の彼女を見ていて、
オレの選択に間違いがなかったことを確信できた。

「で、楽しみなことがひとつあるんだ」
「え? な~に?」
「彼女とベッドに入るのと、
 妻とベッドに入るのと、
 どこがどう違うのかという非常に楽しみな問題」

拓実は真っ赤になりながらほっぺたを膨らませる。

「んもう~ カズちゃんスケベ!! いやらしい!
 そんなことしか考えられないの?」
「ごめん、オレって… これしかないんだよ~!!」

って、結局その日もいつもとおんなじになって。
正直言って、特別違うところなんぞありはしなかった。

拓実がその間ずっとうれし泣きをしていたことを除けば。
そして余計に可愛く見えてしまった以外は。


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「杉田君。ちょっと来てくれる?」

「昨日の見積もり。こんどは違うところが変。すぐ直して持ってきて」

あっさりと開放されて席に戻って来た俺を、
西山が不思議そうに見る。

「なんか、いつもと違うな……
 でも、いったいどこ間違えたんだよ、おまえさぁ」

そうだ。俺も疑問だ。見た。
別な欄にうっかり触ったのだろう。1円の追加が発生してた。
そこに赤丸が書き込まれ「?」のマークがついてる。
そしてそのすぐ下には……

「どこだよ?」
覗き込む西山。あわててくしゃくしゃにしてポケットに突っ込んだ。
「いや、イージーミステイク」
「そっか。ま、どうでもいいけど」

見せられるわけがないだろ。こんなの書いてあったら………


カズちゃん大好き! はぁと


おまえさぁ……



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