〜〜 みちづれ 〜〜


「私、子供の頃、あれ欲しかったんです」
娘の指差す先には、鯉のぼりがあった。
大きな家なのだろう、10匹ほどの巨大な鯉が空を泳いでいた。

「?」
「家は私と妹だけで、男の子がいないんです。
 お雛様は代々の立派なのがあるんですが、鯉のぼりはなくて。
 母にねだったこともあったんですが、流石に買ってはくれませんでした。
 私は、ああいう風に高いところをなびいてる姿大好きなんですけどね。
 珍しいですかね?」

「いや、そうでもないでしょう。
 誰にも言ったことないんですが、私はお雛様が好きでしたね。
 家は男ばかりで、その上あまりに兄が悪さばかりするせいで、
 母がお雛様を出さなくなってしまいましてね。
 近所の女の子のひなまつりに、混ぜてもらいたかったのですが、
 うちのそばじゃ男の子は呼ばないしきたりだったので、それは駄目でした」

「それは残念でしたね」
娘はそう言って微笑んだ。


娘の醸し出す雰囲気に家柄のよさはにじみ出ていたが、
それが幸ニ郎を圧迫することは全くなかった。
自分の考えを素直に言葉にするその態度に、ある種の心地良ささえあった。

この時間がいつまでも続けばいいと、唐突に幸ニ郎はそう思った。
自分でも驚いてしまう感情の動きだった。


夕陽が長く伸びる頃、宿場町にたどり着く。二人は足を止める。

「あの、お泊り、どちらですか?」
娘が覗き込むように幸ニ郎を見上げる。

「決めてはいないんですが、そこの美濃屋がいいと聞いてますのでそこに」
「あぁ、私もそこにしようかと思ってたんですよ。人気あるみたいですね」

連れ立って美濃屋に入る。
足を洗い、首筋と手を軽くぬぐったところで、
番頭らしき年配の人物に幸ニ郎は宿泊を頼んだ。

「お二人さんご案内です!」
奥へと告げる言葉に二人は驚く。

「ち、違います、この方とは別々なので」
「あ、そうでしたか。てっきり御夫婦かと思ったもんですから。
 私も此の商売長いんですが、
 ぱっと見て、殆ど間違えた事は無いんですけどね。変だな。う〜ん。
 あ、ともかく済みませんでした。じゃ改めて」

宿帳を調べていた番頭は、首を振りながら向き直る。
「済みません、今夜はもう一部屋しか残って居りませんで。
 本当に申し訳有りません。普段なら此の様な事は無いのですが。
 どちらかお一方だけになってしまいますが」

「じゃ、この方にその部屋を。私は別なとこをあたりますから」
幸ニ郎は咄嗟にそう言った。
第一、若い女性をこんな時間に街中でうろうろさせるわけにはいかない。

「それはいけません」
「いえ、私のほうは近くをあたってみますから大丈夫です」

二人のやりとりを遮るように、言いにくそうに番頭が口を開く。
「‥でもね、お客さん、もしかしたら他所も駄目かも知れませんよ」
「どうしてですか?」
「いやね、お参りの団体さんが入ってまして、ここの宿場は何処も彼処も一杯で」

一瞬の沈黙のあとだった。

「番頭さん、やっぱり一緒の部屋にしてください」
娘の爆弾発言に、幸ニ郎は度肝を抜かれる。

番頭は驚きかけた両目を途中で止め、二人を交互に見やり、
わかったように小さくうなづいた。

多分誤解されてる。幸ニ郎は番頭の雰囲気でそれを感じた。
しかし、口を開こうとした幸ニ郎を娘が目で制する。

「本当によろしいんですね?」
間隙を縫うように発せられた番頭の問いかけに、娘はよどみなく答えた。
「はい、それで」

とまどいに包まれた幸ニ郎が無言のままでいるうちに、
番頭が自信に満ちた大きな声を上げた。

「お二人さんご案内!」


部屋に入り、仲居が出て行った後、娘は開け放たれた窓際に立ち、
外の景色を眺めていた。

ちゃぶ台の前に正座していた幸ニ郎は背中越しに改めて問うた。
「どうしてこんなことを?」

しかし娘は窓際に立ったまま幸ニ郎の質問に答えることもせず、
「露天風呂がそこにあるみたいです。ご飯の前に行ってみましょうか?」
と、のんびりとした口調で普通に話す。

「そういうことじゃなくて、なんで」

娘は振り返る。
見た目は一人前でもやはり中身が子供なのかもしれない。
ここでちゃんと大人のけじめをつける必要がある、幸ニ郎はそう思った。

「仮にも男と女。名前さえ知らない男女が同じ部屋で寝るわけには」

幸ニ郎の言葉を遮るように娘が口を開く。

「とういうことは‥ 夜になったら、私、襲われるんですか?」
「そんなことは‥ しません!」
「じゃ、いいじゃないですか一緒でも」
「いや、そういう事じゃなくて」
「じゃなくて?」

執拗な追求に幸ニ郎は言葉に詰まった。
なによりも、そんなやりとりを娘が楽しんでいること自体が解せなかった。

娘は窓際を離れ、幸ニ郎の目の前に座った。
息が掛かるくらいそばに顔がある。

近すぎる。
鼻腔にほのかにいい香りがした。
幸ニ郎は頭の芯がしびれたような感覚に襲われる。

「私、初といいます。初めての子供だから、初。
 今、十七です。よっつ下に妹がいます。
 で、こうじろうさんって、どんな字を書くんですか?」

「?」
「茶店で御自分のお名前仰ってましたから」

そう、茶店で幸二郎は自分の名前を言っていた。

「次男坊で二郎、父の名の一字『しあわせ』をもらってます」
手のひらにお初は字を書いて、記憶の中にとどめようとしていた。

「はい、これで名前は知ってますよね、お互い」

名前さえ知らない男女、では無いと言いたい様だ。
手に負えないお嬢さんだ‥‥ 

「こんど‥」
「?」

「‥‥こんど家に帰ったら、お見合いしなければいけないんです、私。
 後継ぎの男がいない商家、どうしてもお婿さんをとる必要があって。
 だから全く知らない人とお見合いして、そして多分そのまま祝言をあげて。
 いえ、それでもいいと思ってたんです。本当に。
 でも最近、それで私の一生が決まってしまうのかと思ったら、
 なんだか‥‥ 寂しくなって‥‥」

そんなお初の思いはなんとなく幸二郎にも理解できた。
長く一緒に暮らす人間が、たった一度の出会いで決められてしまう。
恋を胸を焦がすこともないまま現実の生活に身を投じることは、
十七の娘にはあるいは酷なことかも知れない。

「ですが、父を困らせることはしたくありませんでした。
 この年齢になるまでなんの苦労もせずに育てて貰ったことがわからないほど、
 浅はかな女ではありません。
 ですから、一度だけ、一人きりで旅行をして、自分の気持ちに区切りをつけよう。
 そう父にお願いして心配する家族を振り切って、家を出てきました」

自らの置かれた環境。家族の思い。
すべてが分かっていたとしても、気持ちは理屈で割り切れるものではない。
しかし、お初はそれをゆっくりと自分に溶け込ませるために旅に出た。
そういうことだ。

多分、自分がそんな環境に置かれたなら、同じように考えただろう。
無理もない。


「今、私、あなたが好きなんだと思います」

脈絡のないその言葉に幸二郎は絶句する。
見上げれば、お初の顔は真剣でそれが冗談ではないことを示していた。

しかし、これはちがう、と幸二郎は思った。
この娘は、他人に決められた道を自分の道とするかどうかで迷っている。
咄嗟の逃避行動と自分でも気付かずに、出会ったごく普通の男に、
過分な思い入れをしてるに過ぎない。
そんな誤解はなるべく早く解かなければならないだろう、そう思った。

「お初さん。あなたは今、ちゃんと考えて行動してはいない。
 一時の感情に押し流されて、突飛な行動を取るのはやめたほうがいい。
 だいたい私のことだってそんなによく知らないわけだし」

「いいえ、幸二郎さんのこと、なんとなくわかります。
 それに、みたらし団子の食べ方だけで好きになったわけじゃありませんし」

なんと言って説得したらいいのか、幸二郎は途方にくれる。

「あ、言いたいこと言ったら、なんかすっきりしました。
 あの‥ お風呂、先に行ってきていいですか?
 露天風呂、大好きなんです。
 あるってわかったら、なんかもう我慢できなくて」

人を好きだと言った後には、今すぐお風呂に入りたいという。
異様な素早さで切り替わる話題に、幸二郎の体勢は崩れきっていた。
「どうぞ」と言うのが精一杯だった。

「ありがとうございます。じゃお先に頂いてきます!」
浴衣をかかえてお初は愉しそうに部屋を出て行く。