ひとごこち

二の巻

「なんだったら今から、やってみるか?
 お久抱えて、ちょっと木のてっぺんまでひょいと昔のように」

亭主の無謀な発言にお久は苦笑いをしている。

「なに言ってるんですか。あのとき私は五歳。ほんのこどもでしたし。
 それに、来月には花に子供が生まれて、
 私たち、正真正銘のおじいちゃんとおばあちゃんになるんですよ?」

「………」
勝之はばつが悪そうにしている。
「でも… なんでそんな昔の話を?」

「いや…… 今おまえを見てたら、
 あのとき腕の中ではしゃいでいた時と、全然変わらないみたいに思えてさ。
 で、それを見てる私の気持ちも変わってなくて……
 そこんとこがどうにもこうにも不思議で」

お久は答えに窮する。その頬はこころなしか紅く染まっている。

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「で、お話というのは?」

珍しく今日は親方が勝之だけを酒の席に誘った。
近所の人と大騒ぎで飲むことは多くても、こういう形は初めてだった。
とはいえ、急に高級料亭に行くわけもなく、来たのはいつもの料理屋。
ただ、通された座敷席は奥のほうにあって、
外とは隔絶された静かなたたずまいを見せていた。

無言のまま何杯かのやりとりをしてから、思い切ったように親方が話し始めた。

「勝公もなにかと思うよな、んなとこに突然連れてこられて。
 じゃ、まぁ、俺もまわりくどいのは苦手なんで、ここは単刀直入に…」

「おまえ…… お久お嬢さんを嫁に貰う気はないか?」

勝之は自分の耳を疑った。
なんで彼女が、武家の娘が、よりによってしがない植木職人の自分の所に……

「……親方。もう一度言ってもらってもいいですか?
 なんか、聞き間違えたようなんで
 飲んだことのないいい酒を飲んだせいか、なんか耳がおかしくなったようで」

「いや、聞こえたとおりだ。間違っちゃいねぇよ。
 相手は、毎年行ってるあの屋敷のお嬢さん、お久さんだ」

「でも……」

「そう。おまえの考えてるとおり、この話はわけありだ。
 まず、おまえんとこに行くにあたって、持参金が十両」

あまりな額の持参金だ……

「それでだ。まだ続きがある。
 ただ、この話断わるにしてもこれから話すことだけは他言無用にしてくれ。
 先方さんからもこれはきつく言われてるんだ。
 ま、口の堅いおまえだから心配はいらないと思うが、一応言っておく」

親方は勝之のそばに近づき、周囲を見回したあと、小声で耳打ちをした。
「で、お嬢さんのおなかに… その… 赤ん坊がいる、ってことなんだ」

勝之の頭の中に様々な思いが錯綜する。
お久が身ごもってる? なんでそんなことが有り得るんだ?!
嘘だろ? あの純朴な娘に限って。
それに、ついこの間会ったばかりで、全然そんなふうには…

「いや、医者も診てるし、それだけは間違いないそうだ……」

勝之の疑問を見越して親方が言葉を続けた。

「まぁ、何度も言うようだが、おまえはこの話を断ってもいいんだ。
 誰も強制したりはしない。すべてはお前の気持ち次第だ。
 ま、そりゃそうだ。縁談の相手のお腹に子供がいるなんてな」

「ただ、知ってのとおり、俺はあのお嬢さんの親父さんとは古い付き合いでな。
 まぁ、餓鬼の頃からいろんな悪戯を二人してやった仲で、
 だから今回もまんま話せる俺に、どうしたらいいのか相談に来たってわけで。
 ま、他の人にゃできねぇよな、んな話」

「そんときに頭に浮かんだのがおまえのことだ。
 昔からなんかお嬢さんと仲良かったし、もしかしたら…って思ってな。
 ……で、どう思う? 率直なとこ教えてくれ」

そう言いながら手酌で酒を注ぐ。徳利の立てるかすかな音が部屋にひびく。

勝之は顔をあげ、つかのまの静寂を破った。
「承知しました、と先方さんに伝えてください」

「は?」
口に運ぼうとしていた杯が宙で止まる。

「私、その縁談、お受けします」



結納、そして祝言。
お腹が目立たないうちにということで、駆け足で儀式が行われた。
話があってから一月も経たぬうちに二人は夫婦となった。

長屋の一間に暮らす勝之とお久。
朝、食事を作り、仕事に行く亭主を見送る妻。
そのあと、洗い物をすませ掃除をし、つくろいものをして。

目だって大きくなったお腹をかばいながら、
生まれてくる子供を待ちわびる、
そんな仲のいい普通の夫婦に、世間からは見えていたかもしれない。

しかし、勝之は共に暮らすようになってから、
お久の笑顔を見た記憶がなかった。
樹上の勝之を楽しそうに見つめていたあの娘はどこにもいない。

そんな彼女の閉ざされた心を解きほぐすのが自分の仕事なのだと思っていたが、
数ヶ月を経ても何も変わることなく、勝之はここの所思案に暮れていた。

時がそれを解決してくれる、そう願うよりほかなかった。



子供が生まれた。女の子だった。勝之が花と名付けた。
ひたすら乳を飲み、体調を崩すことも少く元気に育っていく。

仕事から帰ると勝之はまず花を抱き上げる。
その腕の中で花は笑顔を見せる。
勝之はそのたびに、一日の疲れが全て遥か彼方に飛んで行くような、
そんな気がしていた。


花が生まれて三ヶ月ほどが経ったある夜。
眠っていた勝之は、かすかな物音がしたように思った。
それは入り口の引き戸の音にも似ていた。
でも今頃いったいだれが……

胸騒ぎが勝之を急速に覚醒へと向かわせる。

寝床から身を起こす。
隣に寝ているはずのお久と花の姿がない。
枕元には折りたたまれた手紙。
表には『勝之様へ』と………

手紙を懐に押し込むと、あわてて外へ飛び出す。
もしやと思い大川へと向かう。

人通りの無い夜道を抜けると、あっというまに大橋のたもとに辿り着く。
橋の中ほどに影が見えた。それは背に赤子をしょった形をしていた。
間違いない。
走って行ってその腕をつかむ。振り向いたその顔はお久だった。


じじじと音を立てて灯芯がゆらめく。
無理やりに家へと連れ戻されたお久はうつむいて座っている。
花はねんねこにくるまれたまま、夜具の上で眠っていた。

手紙を読み終えた勝之は天井を見上げる。

お久を悲しい出来事が襲ったのは、歌舞伎を見に行った日のことだった。
そろそろ演目が終了しようという頃、
一座の若い衆からお久の元にお茶の席を用意してあるからとの申し出があった。
聞けば本日の看板役者富三郎も来るという。

「私…だけですか? それに遅くなると父が」
「いえ、何人かの方と一緒です。ご贔屓のお客様にご挨拶したいとのことで。
 すぐに終わりますし、どうぞお気楽に」

行ってみると、部屋には二人だけだった。
あとの人は遅れてるとの言葉に疑問を抱きつつも、出されたお茶を飲む。
お久の記憶はそこでぷつりと途切れていた。
ただ、やけに眠かったことだけはうっすらと覚えている。

気付けば、夜具の中にお久は寝ていた。
起き上がるとすぐそばに裸の富三郎が座っていて、煙管をくわえていた。

「ま、このことは家族には言わないほうがいいかもしれないな」
気配を感じ、振り向くこともなく冷たく言い放たれた言葉。

そして、先ほどからわが身を襲っている下半身の重い痛み……

意識の無い間に何があったのかを、お久はおぼろげながら理解した。

「というより、言えないよねぇ、んなこと、口が裂けても」
その言葉とともに、小気味良い音を立てて煙草盆に煙管が打ち付けられる。

罠。そしてそれに引っかかった自分。

「じゃ、また会いたくなったら言付けしてくれりゃいいから。
 喜んで予定空けるよ、素敵なお嬢さんのためなら」
男はそう言い置いて部屋から出て行った。

一月も経たぬうちに悪阻がやってきて、全ては父親の知る所となる。
父親は、何をどうすればいいのかもわからず、勝之の親方に相談をした。
他に話す相手などあるわけもなかった。全てを吐露する。
そして勝之とお久の縁談が苦し紛れに提案された。


「どうするつもりだったんだ?」
「……」
「お花といっしょに身を投げるつもりだったのか?」
「……」
「それは勝手すぎる話だと思わないか。
 そうだろう? だってこの子には何の罪も無いんだ。
 どんななりゆきで生まれた子供であっても、
 死ななきゃいけない理由なんてないんだよ、どこにも」

「いえ」
「……」
「この子は、これからずっと不幸な人生を歩むしかないんです。
 私の犯した過ちで生を授かったこの子は、
 この先誰からも愛されることもなく、後ろ指をさされながら日陰の身で」

勝之は身を乗り出し、平手でお久を思い切り殴った。
長屋中に響き渡るような大きな音がした。
お久の体が畳の上にどうと倒れる。

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