ひとごこち

一の巻

「なんですか?」
「え?」
「だって、さっきからこっちのほうをしげしげと見たりして……
 ……私の顔、なんかついてますか?」
「いや、ちょっと不思議だなって思ってさ」
「?」
「だからさ」
「……?」

「ったく。参ったね、どうにもこうにも」

言葉を区切り、勝之はお茶をすする。
その手の中、年季の入った湯飲み茶碗は、
遥か昔、二人が一緒になったときに揃えたもの。
なぜかこれだけは割れることなく、ずっと使っている。

「ほら、昔、私がお久を抱えて庭木の上に登ったことあったろ?」

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勝之は十三の年から植木職人の見習いだった。
預けられた親方は腕は一流、面倒見も良い好人物だった。
酒好きな所だけが唯一の欠点らしい欠点ではあったが。

ある日、とあるお屋敷に親方と二人で行った時のこと。
半ばまで作業が済んだあたりで、突然親方が言い出した。

「勝公!」
「はい、親方」
「ここ、あとはおまえに任せたから」
「えっ、でも、私はまだ見習いの身ですし」
「大丈夫だ。こっから先は、今のおまえならなんとかなる。
 オレの目に狂いは無い」

そして小さな声で付け加える。

「実は、ここの旦那とはガキの頃からの長い付き合いでね。
 久しぶりに会えたんで、ちょっと、って話しになったもんだから」

親方は杯を傾ける仕草をした。
この人の前に酒を置いたら、誰にも止められるわけがない……

「わかりました。そういうことなら」
「じゃ頼んだよ」
軽やかな足取りで親方は母屋の方へ消えていった。

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高木に登り黙々と枝を切り揃えていた勝之は、
ふと見下ろした庭先に、少女が立ってこちらを見つめているのに気づいた。

「お嬢さん。そこ危ないから、部屋の中に入っててもらえますか?
 枝があたると怪我しますから」

耳でも聞こえないのだろうか。少女は動かない。
いや、首を横に振って勝之の提案を拒絶しているではないか。
とはいえ、怪我をしてからでは遅い。

「あの、ほんとに」
「そこ、高くて気持ちいいの?」

笑顔でそう問いかける少女は、年の頃なら五歳ぐらいだろうか。
紅色の綺麗な着物をまとい、肌は雪のように白かった。

「ね、あたしもそこに登りたい」
「だ、駄目です」
「いやだ! 登る!」
「………」

勝之は心底困り果てた。
癖の悪い枝ならなんとかできても、わがままな子供の相手は不得意だ。
しかし、このままでは親方に頼まれた作業すら滞る……

勝之は梯子を降りた。少年らしい悪戯心を胸に秘めて。
目の前の少女を委細を聞かず片手に抱きかかえると、
ずんずんと梯子を上ってゆく。
すぐにてっぺんに着く。

腕の中の少女は力の限り勝之にしがみついている。
彼女としては覚悟の無かった分だけ、相当に怖ろしいに違いない。

しめしめ。作戦があたったことに少年は満足を覚えた。
じゃ、これぐらいでいいかな。これでこのお嬢さんも少しは懲りただろう。
そう思い、降りようとした矢先だった。

「きれい……」
腕の中から幼い声がした。
先ほどまで閉じていた目が見開かれ周囲をきょろきょろと見ている。

「お嬢さん……」
「おひさ」
「?」
「久っていうの、あたしの名前」

「あなたは?」
「…勝之」
「ふ〜ん」

しかし二人だけのひとときは次の瞬間に打ち破られた。

「お〜い、勝公! 何してんだ?!」

そこには心配になって様子を見に来た親方がいた。
勝之は後悔を覚えながら、お久を抱えたまま梯子を降りる。
そして彼女を地面におろした。
親方は珍しく怒っていた。

「おまえ… なに考えてるんだ? 
 こんな小さい子を抱えて登ったりして、危ないだろうが?!
 それにおまえは知らないだろうが、この子はこちらの大切なお嬢さんだ」

流石にこの小さな娘の素性までは勝之の知る範囲ではなかった。
それに、いくら子供に請われたからといえ、
やってはいけない行為だったのも事実。

親方はめったに怒ることが無かったが、
危険な仕事の仕方に対してだけ、いつでも猛烈に怒りをあらわにする。
勝之は親方の拳骨を覚悟した。目をつぶり歯を食いしばる。

しかしそれはいつまで経っても訪れなかった。
目を見開くと自分と親方の間に少女が立って両手を左右に広げていた。

「あたしが頼んだの。だからぶたないで。この人は悪くないの」
「でも、こいつは」
「いいの」
「そういうわけには」

突然、少女は勝之の懐に飛び込む。しっかりとしがみつく。
そして親方を振り返り言い放つ。

「わからずや!」

声が母屋にも届いたのだろう。お久の父親、この屋敷の主が顔を見せた。

「すみません」
親方が頭を下げたのを見て、勝之も頭を下げる。

事情を聞いて、主は笑っていた。
「また、お久がご迷惑をお掛けしたようですね」
恐縮したままの二人。
「我ながらどうしてもこの子には甘くて、わがままに育ってしまって」

「ちょっとおいで、お久」

「よくお聞き」

「お久が高いところに上ったりするのが好きなのはいい。
 まぁ女の子があんまり危ないことをするのは私としては嫌だけどね。
 でもほら、今、二人とも困ってるだろ?
 親方も、このおにいちゃんも。
 おまえが自分のやりたいことを押し通したから、
 こんなことになった。それはわかるね?」

少女はこくりとうなづく。

「お久。私がお久に望むのは、
 ひとのこと、ひとの気持ちがちゃんとわかる大人になって欲しい。
 それだけだ。
 そして、今回のことはおまえがいけない。
 私のいうこと、わかるか?」

「……わかった…… ごめんなさい」
「ならいい」


その翌年も、また次の年も、勝之は親方と二人でその屋敷に行った。
あの日以来、少女はわがままを言うことなく、
部屋から静かに勝之の仕事ぶりを見ている。

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十七となったお久は、いつしか幼少の頃のやんちゃな面影もなくなり、
清らかな美しい娘へと姿を変えていた。

そんなお久はやはり最初の日と同じように、
飽きることなく勝之の仕事ぶりを見ている。
今はおとなしく縁側に座っているという点が唯一違ってはいたが。

一方の勝之は極度の緊張を強いられる羽目に陥っていた。
それはそうだ。作業の一挙手一投足を見つめられれば誰でもそうなる。
今はもう相当の熟練者となっていたのに、
思わず切らなくていい枝を切ってしまうことも幾度か。

なんとか仕事を終わり手水を使う段になって、
やっと勝之は初めてほっとする。

手を洗い終わると、横からお久が間合い良く手ぬぐいを差し出す。
これは前の年から始まったやりとり。

礼を言って勝之はそれを受け取る。

部屋にはあがらず縁側に腰掛け、お久の立ててくれたお茶を飲む。
縁側を渡る風が心地よい。

それにしても箸が転がっても可笑しい年頃とはよく言ったものだ。
勝之の話す市井の話しに、お久は良く笑う。それもとても楽しそうに。

もしも……
彼女が町方の、例えば自分と同じ長屋住まいの娘であったなら……
そこから続く叶わぬ夢が、束の間、勝之の脳裏に去来した。

「あの」
目の前に怪訝そうな顔をしたお久がいた。

「えっ?」
「私の話、聞いてなかったでしょ、今」
「あ、ごめんなさい、ちょっと考え事してて」
「なに考えていたんですか? すごく真面目な顔してましたけど」
「いやなに、たいしたことじゃ」
「ほんとですか?」
「ほんとです」

「あやしい…… それとも私には言いにくい話?」

いや、あなただから言えないんですけど……

勝之はお久の追及をなんとかごまかして、
聞き逃した話をもう一度話すように促す。

来月、中村富三郎の京鹿子娘道成寺があり、
同じ師匠のもとでお琴を習っている娘たちと、
お久は見に行くことになっているとのことだった。
通しなので一日がかりになるという。

余り歌舞伎には興味のない勝之でさえ、中村富三郎の噂は聞いていた。
ひとつにはその凄艶な踊りに江戸中の女性が魅了されている役者として。
もうひとつは、様々な女性と浮き名を流す色男として。

「ちょっと心配ですね」
「えっ?」
「いや、富三郎はいろいろと悪い噂も多くて」

くすっ、とお久は笑う。真面目そうに言う勝之の表情が可笑しかった。

「大丈夫ですよ。私は升席。あちらは舞台。
 梯子の上に登るより安全だと思いますけど?」

勝之には返す言葉が無かった。

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