俺と彼女の日常


教室の後部出入り口まで、あと50cmというところに俺は到達していた。
腰をかがめた状態はさすがにつらいものがあるが、自由を得るためには我慢するしかない。

あとすこし、もうちょい。

境界線を越して自由の身に……そう思った瞬間、上着の襟が誰かにつかまれた。
誰の仕業かなんてこと、確認するまでも無い。背後から聞きなれた声がした。

「何処の国であっても、軍隊では、戦場での敵前逃亡は銃殺刑らしいですね」
「いや、ここ、とっても平和な国だし、憲法第九条でも軍隊に関しては」
「忠告しておきますが、話を引き伸ばしてもあなたにチャンスはやって来ません」

ダメか……

「それにしても、毎日のように脱走をしようとするあなたの姿を見てると、
 某合衆国のテレビドラマじゃないんだし、とつっこみたくなりますね、私でも」

へ~ 知ってんだ、茉莉ちゃん、そんなTVネタ。

「あと、これは警告です。サボり大魔王かつ人格破綻者の横山君に、
 私のファーストネームを公の場で呼んで欲しくはありません」
「了解しました、水元隊長!」
「……ともかく、すみやかに掃除を開始してください、いいですね」
「は~い」

それにしても人格破綻なんて言い過ぎだろ、いくらなんでも。

「それから、こっち側は私がやりますので、横山君には窓側エリアをお願いします」
敵は、俺の退路を完全に絶つ作戦に出てきた。相変わらず手強い。

二度目のチャンスを見出すことも出来ぬまま掃除の時間が終り、
監督官殿は皆に別れの挨拶をしてからカバンを持って教室から出て行った。
長いため息をついたあと、俺も帰り支度を始める。

本屋に寄った。新刊が出てる日で、本屋の親父には仮予約済みだ。
かばんにそいつを放り込み、ワクワクの思いで家にたどりつく。

ドアを開け、玄関で靴を投げ飛ばすように脱いだ。
そこにはこのうちの人間のものではない女物の靴があった。見慣れたやつだ。

「ただいま!」
「お帰り~」
台所のほうからお袋の声がした。

「来てるよ」
「わかってる」
階段を昇る。

一瞬の躊躇のあと、ノックして部屋のドアを開けた。
彼女は机の前の椅子にちょこんと座っていた。

ふわふわのピンクで首元が緩めのタートルネックセーター。
あと、タイトなスカート。

そんな彼女は俺を見上げ、スッと立ち上がる。
まっすぐ歩いてきてそのまま俺に抱きついた。
彼女の顔がちょうどおれの胸のところにあたる。
見れば、子猫のように顔をすりつけている。
あわてることもなく、俺は後ろ手でドアを閉める。

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「なにしてるんだ?」
「補給」

……だそうだ。

水元茉莉。四軒隣に住む同い年の幼馴染。
週に何日かは、なにか…おそらく彼女にとって大切ななにかを補給しに、
ここに来る謎の生物だ。

「もういいか?」
コクリと彼女はうなずいた。体を離す。
椅子に座らせ、学生服の上着をベッドに放り投げてから俺は1階へと向かう。

「はいこれ」
紅茶とケーキがお袋から渡される。いつものように。

俺の足音がわかったのだろう、部屋のドアは目の前で開かれた。

一口で平らげる俺と、ちまちまと食べてる茉莉。
俺は結構なスピードで紅茶のほうも飲みきったけど、彼女はおもいっきり猫舌だ。
フーフーして必死でさましている姿はまるで幼稚園児だ。

んなのは放っておいて、俺はカバンから新刊コミックを出し、
ベッドに腹ばいになって読み始めた。

もう、すげぇや。やっぱ俺的に、こいつ神認定。いっつも……

肩口に気配がした。そして俺を横抱きにするように張り付く何か。
手も足も俺の体にからみつけて、言ってみれば、ほぼコアラとユーカリの関係に近い。

おまけに腕にまでからまってるから、ものすごくページがめくりにくい。
がっしりと固定されてるんで、しかたなく片手でめくる。

そのうちに、すぐそばで穏やかな息遣いが聞こえ始める。
そーっとそっちに顔を向けると、彼女はしっかり眠っちゃってた。
意識の無い人間は重い。腕が更に動かしにくくなった。

しかし引き剥がそうとはしない。
そんなことをした日には、やたら不機嫌な顔になって絡んでくるから。
だから俺は、その存在を頭から一旦消去して、コミックへと集中する。

しかし、気がかりな点があった。
こんな感じで熟睡したあげく、こいつ、よだれを垂らすことがあるからだ。

別に俺は潔癖症じゃないし、どうせあとで着替えて洗濯機に放り込むんだから、
いいっちゃいいんだけど。

……こういうふうに俺に引っ付いている時間、
彼女は、不安とか遠慮とか、そういったものとは無縁の時空体の住人になるらしい。

目の前の彼女の表情はあくまで穏やかで、
実を言うと、俺はこの状態、嫌いじゃない。
まぁ、信頼されてるっていうか、あまり悪い気はしないし。

いつからこんなことになったのかと思い出そうとしても、
もうそれはずっと昔から、記憶のある限りにおいてこの状態だった、としか言いようがない。

男と女のちがいに目覚める時期……あるでしょ誰でもそんな頃って……、
そんな時期には、かなり恥ずかしくなって彼女を突き放したこともあったけど、
なんにも言わず、さびしそうに俺を見つめる彼女に根負けして……ま、今に至る。
ということで、以下略。

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コミックを読了した俺は、彼女を起こすことにした。

「起きろ!」

うっすらと目をあけた彼女が最初にしたことは、ズズッとよだれをすすること。
肩の辺りの皮膚感覚を動員した結果、どうやら今日はセーフだったようだ。

「…おは…よう」

特上の微笑を見せる彼女に釣られて俺も言葉を返す。
「おはよう」

聞いたことはないのだけど、学校って場所は彼女にとってオフィシャルなエリアらしい。
そしてここがプライベートエリアに区分されていて。
だから学校にいる間はこんな表情は絶対に見せたりしないんだ。態度も、そして言葉遣いも。
どういう理由かはよくわからないけど。

俺と彼女は同時に身を起こした。
ベッドの上で、こっちはあぐら、彼女は女の子ずわり。
少しスカートが上がり気味で、太ももが多めに見えてる。実にまぶしい。

正直、俺だって男の端くれなわけで、こんな至近距離に女の子がいれば、
もう気持ち的には赤頭巾ちゃんを前にした狼なんだけど、
当の赤頭巾ちゃんは、童話と同じで危機感がまるっきし欠如したままなんだ、これが。

でも正直に言うと、仮に俺が彼女に襲い掛かったとしても、
彼女は頬を染め恥ずかしがるだけで、全然逃げたりしないような、そんな気がしてる。
これについては確信に近いもんがある。

そこらあたりに気付いたのは最近なんだけど、
なにかに関して、自分に全ての権限が与えられているとわかったとき、
人はやたら慎重になるものだ、ということを俺は思い知ったね。

求めればキスぐらい簡単だろうし、あるいはその先も可能なんだろうけど、
「全部お任せします」と言われちまったら、そうは簡単に踏み出せないんだよね、逆に。

俺にある種の自制心ってやつがあるなんて、びっくりした。そのときに。
いや単に臆病なだけかも知れんけど。

「なに考えてるの?」
彼女の言葉に思考が中断された。不思議そうな顔をしている。

「ソールベローの童話について考えてた」
「えっと、赤頭巾?」
「そう」

「じゃ、私が赤頭巾であなたが狼?」
「普通に考えて逆は無いだろ」

彼女が笑う。

「……なるほど。私は今、とても危険な状態に置かれているわけですね。
 それは困りました」

見事な棒読み。

科白の中に、困ったオーラが全然見当たらないんですけど。
楽しそうに微笑んでるし。

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試しにぐ~っと顔を寄せてみる。しかし見せる笑顔は変化しない。
だめだこりゃ。話にならない。

しょうがなく額にキスをして離れた。

「え~~っと。正直、期待して損した気分です」
言うな! そんなこと! その口で その笑顔で……

なぜなんだろう。思春期の男と女がこうして二人っきりになってること、
うちの親も向こうの親も、全然なんにも言ったりしないのは。
俺が言うのもなんだが、もうすこしなんらかの、
そう、保護者的リアクションがあってしかるべきとは思う。

面が割れてるし、身元も性格も全て把握されてるのは確かだけど、
なんか公認みたいな状態なのは、一般的に見てどうなんだろうね。

話を俺たち自身に限定しても、恋人……っていうのとはなんか違う気がしてる。
いや、認定条件に関して詳しく検討したことはないけど。
彼女が俺に対して思ってることは推測の域を超えないし、
こっちはこっちで、彼女への思いに胸を震わせてるなんてこと全然無くて。

多分共通してるのは、二人とも、こうしている時間が心地よいって感じてることだけ。

学校でクラスメイトは、そんな俺たちのことを生あったかく見てるだけで、
これまたなんも言わないし。

いやいやこれは……

ふと気付くと、まん前に超至近距離で彼女の顔があった。
うわっ!

「あなたには非常に重たい悩み事があるようです。私にはわかります。
 つらいでしょうね。でも大丈夫。どんなことでも私がご相談にのります」
と、占い師みたいに言い出す。
てか、棒読みリターンズ。

……だいたい君のことですから、俺の唯一の悩み事って。

「今日は用事があるので帰りますが、
 また、相談する気分になったときには、遠慮なく声をかけてください。
 じゃまた、明日、学校で」

そそくさとベッドを降り、スカートのしわをととのえて部屋を出て行く彼女。
1Fで「ごちそうさまでした」とオフクロに言ってるのが聞こえた。

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「おはよう」
「おはよう」

今現在、学校エリア内の彼女、水元茉莉はオフィシャルモードだ。
俺としてもそのほうが楽なんでいいっちゃいいんだけど。

逆に、学校でバカップルモード全開ってのもイヤだし。
そこまでやるにはどうも一般的な条件はクリアしてないし。

しかし、背中にモードセレクタスイッチでもついてんのかって思うほど、
学校にいるあいだの彼女の態度は一定している。

それでも、どっちの彼女も可愛いと思うオレは、
たぶん相当の重症なんだと思う。水元茉莉中毒の。

Fin

初出:2013/06/14 サイトオリジナル