聖ミハエル教会  〜古谷野神父 修行の日々〜


第1話 忙しい朝 その2

「おはようございます」

そう声を掛けると、その女性はビクッとした。

「あ、 おはよう‥ ございます」
いたずらを見つかった子供のように、最後は消え入るようだった。
そしてピョコンと頭を下げる。

「なにか、え〜 この教会に御用でしょうか?」
「あ、いえ‥‥」

しかし、それは下手な嘘だった。
先ほどの樹里ちゃんとは違って、彼女が本来の意味の、
「迷える子羊」だということは、誰にでもわかるはずだ。

しかし、こういう時に、どう言えばいいんだろう?
神学校でも、こんなケースは習ってないし、
え〜っと‥

「あら、ちょうどお紅茶の時間ですね。
 どうですか? ご一緒に?」

いつのまにかそばに来ていた吉岡さんが、さりげなく誘う。

「い、いえ、とんでもない」
「いいんですよ、遠慮なさらなくても。
 ここは教会。みなさんのやすらぎの場ですしね」

「それに、こう見えてもこちらの古谷野神父は、
 お若いのに人生経験も豊富で、
 お話しなさってみれば、なにかいいことあるかもしれませんよ」

『こう見えても』っていうのには引っかかるものがあったけど、
ここは吉岡さんの機転を生かすのが筋だろう。

「そう、吉岡さんの作ったオリジナルクッキー食べないと、
 絶対に後悔しますから、どうぞどうぞ」

なんとか強引に食堂までつれて来た。
椅子に座らせてから、キッチンの吉岡さんのそばに行く。
ちらっとこちらを見た吉岡さんと、3秒間のアイコンタクト。

告白室は大げさになるから、ここの方がいいかな?
まぁ、そのほうがいいでしょうね。クリスチャンじゃなさそうですし。
打ち合わせはこうして無事終了した。

三人で紅茶を飲む。
背筋をピシッと伸ばして椅子に座り、
おだやかに紅茶を楽しむ吉岡さんを見てると、
どこかの貴婦人かと、錯覚をおこしそうになる。

このひと、いったいどういう経歴の人なんだろう‥‥

「じゃ、ごゆっくりしてください。私は片付けがありますので」
頃合を見て吉岡さんが出て行こうとした。

「あ、私も」
立ち上がろうとする彼女を、こんどは私が制する。

「待ってください。こちらにお見えになったのは、
 お悩みになってることがあるから‥ ですよね?
 私に話していただければ、
 解決方法を、一緒に考えることもできると思いますよ?
 一人で悩んでると、なかなかいい案も浮かばないものです」

彼女は動きを止め、私の顔を見つめる。
私の言葉の意味を反芻するように思いを巡らせている。
そして、決心したように椅子に腰をおろした。

私に向かって小さくうなずいて、吉岡さんが部屋を出て行く。


「私は、『こやの』っていいます。
 古い谷の野原って言う字を書きます。
 差し支えなければお名前を教えていただけますか?
 いえ、無理にとはいいません。
 え〜、一応、神父という職業は、
 医者や弁護士とおなじぐらい守秘義務の規定が厳しくて、
 どのようなお話をなさっても秘密は必ず守ります。
 信用してください」

一瞬の沈黙のあと、彼女は淡々と話を始めた。

名前は柴崎理恵子。33歳。
長い話だったが、簡単にいえば夫の暴力で身も心も疲れ果て、
ここに助けを求めてきた。そういうことだった。

最初から気づいてはいた。
頬、腕、首のあちこちに、古くなったもの新しいものとりまぜて、
変色したあざが多数あったのを。

ある程度、予想していたことではあった。


「親戚の人、勤務先の会社の上司。色々な人に頼んではみました。
 でも、主人は全く変わりませんでした。
 逆に、『オレがそんなにイヤなのか?』と暴力が一段と」

言葉が途切れ、
うつむいて目元からは、ぽろぽろと涙がこぼれる。

多分、この夫婦を元の鞘にもどすには、かなりの困難があると思う。
人を諭し、愛を説くのが私の務めではあっても、
それをすれば、余計にこの女性を苦しめる結果となることは明白だった。

「苦労‥ なさいましたね。大変だったでしょう?
 わかりますよ」

一段と泣き声が大きくなる。

「カソリックの神父として、私はあなたに離婚をすすめるわけにはいきません。
 でも、あなたがご自分の意志でお決めになることに関して、
 私はあなたの味方になることはできます」

「‥あ、ありがとうございます。神父さん」

号泣を始めた。
ど、どうしよう。

「でも、主人は絶対‥ 別れないって‥‥」

だろうな。だいたいおきまりのパターン。
実は、深層心理では微妙に依存的な関係だったりすることも多い。
それは夫婦の微妙なアヤ。
知識は充分にあるとはいえ、実際のところ私の知らないエリアだ。

実際問題として、
駆け込み寺のように、教会が二人の間に立ち入ることは可能だが、
現実的はかなり厳しい問題もある。信徒でない場合は特に。
どうすればいいのか‥


遠くで‥ なんか‥ 表のほうが騒がしいようだ。
男の怒鳴り声が聞こえてくる。

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