聖ミハエル教会  〜古谷野神父 修行の日々〜


第1話 忙しい朝

「おはようございます」
「おはようございます、古谷野神父」

私の声にコンマ1秒の速さで振り返った女性は、
穏やかな顔で私に挨拶を返してくる。
まるでタイミングを待っていたようなすばやさで。
実際の話、一度ストップウォッチで測ってみたいくらい。

ほうきを持って目の前に立っているこの女性、吉岡さんは、
私がここに着任するずっと前からいた人。
言ってみれば、この教会の守護神。

いつも変わらぬ、物静かな受け答え。
そして、その飽くことを知らない献身的な労働。
この聖ミハエル教会が、いちおう見られる状態を保っているのは、
ひとえに彼女の力によるものだ。
推定年齢32歳。バツイチらしい。
詳しいことを聞いたことはない。

「いつも、吉岡さんは朝、早いですね」
とりあえず言葉が見つからなくてそう言ってみた。

「いえ、それは‥
 古谷野神父がお寝坊さんなだけだと思いますけど?」

うっ。図星。
時計は既に午前九時をまわってる。
社会人なら、とっくに仕事を始めてる時間だ。

「あら、お気になさらないでください。
 ゆうべ遅くまで、あの子達のところにいらしたんでしょう?」

確かに夕べ、隣町の施設を私は訪問していた。
子供達を寝かしつけてから、責任者と色々話し合って。
なかなか苦労の種はつきないようだ。
結局、戻ってきたのは午前零時をまわっていた。

「ちょっと寝不足ですが、それを理由にしては‥」

「おはよう!!」
けたたましいぐらいのボリュームで、元気な声が耳を直撃する。
間違えようも無い。樹里ちゃんだ。
高校3年、18歳。近所に住む元気印で茶髪のおじょうさん。

「おはようございます」
吉岡さんは何事もなかったかのように冷静な受け答え。
そしてすぐに掃除へと戻る。
この人は驚くということがないのだろうか。

「おはよう、樹里ちゃん。
 あれ‥ なんでこんな時間にここにいるんだい?
 学校は? 遅刻?」

「へへ、きょうはテストだからちょっと遅め」
「そうか。で、そのテストの見通しは?
 いや、いちおう聞いておこうかと思って」

「正直に告白します。真っ‥‥暗! 主よ、迷える仔羊に光を!」
シェークスピア風味のセリフとポーズ。

「迷える仔羊 というのはちょっと違っているような。
 夜の街をさまよってた‥ のは、ゆうべも拝見しましたけど?」

背中を見せたままの、吉岡さんの鋭い一撃。

「ぐはっ! 見られてた?」
痛いところを突かれ、瀕死の樹里ちゃん。

「ええ。しっかり」
あくまでクール。

「まぁまぁ。すんでしまったことを悔やんでもしょうがない。
 心穏やかにテスト用紙に向かって、
 もてる力を100%発揮するようにしなさい」

「ありがと。違うなぁ、やっぱり神父さんは。
 あたしにとって、やっぱりここは心のオアシス。
 じゃ行ってきま〜す!」

走り出した彼女はあっというまに姿が見えなくなった。

「古谷野神父‥ いつも、あのコには甘いんですね」
「いえ、そんなつもりはないのですが‥‥」
「もしかして、年下の女性がお好みとか?」

な、なんてことを! 聖職者たる私に!

「冗談です。古谷野神父は、ほんとにまじめな方ですね」

私は大きくため息をついた。

ふと、視野のすみっこに映る人影に気づいた。
女性。若くもないし、かといって中年というわけでもないが、
私よりは年上だと思った。

さっきからいたのかな? この人‥‥
どうも、この教会に用があるらしい。
ちらちら、こちらを見ている。

思い切って声を掛けてみることにした。

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