7 名前:それでは、突撃します。 :02/05/02 17:10
水筒からお茶を注ぎ、少女は少年にコップを手渡した。朝早くに入れたお茶は、日が暮れた今では冷めきっている。
けれども喉の渇きには耐えきれず、少年は一息にそれを飲み干した。
「おいしかった。ありがと。あ、そうだ……これ、食べよ?」
コップを横に置いて、少年は背負っていったナップザックからチョコレートを取り出すと、それを半分に割って少女に差し出す。
「半分こ、ね?」
「うん」
月明かりに浮かぶ微笑み。束の間の幸せに、二人は身体が暖かくなったように錯覚した。
けれど、
「ぅ、あ、ひくしゅ! ……ん、ああ、心配しなくても大丈夫。ちょっと鼻がむずむずしただけだから。うん」
鼻を啜り、気を遣わせまいと少年は笑う。
だがその小さなくしゃみは、少年の体温が確実に奪われていることを示していた。
悴んでいるのか、少年の手は小刻みに震えている。
「隣り、座るね?」
少女は少年に寄り添うように座り、自分の体温を分け与えようと身体を押しつける。ちょっぴり、頬に赤みが差していた。
それから少年の手より受け取り、まだ小さな口には大きすぎるほどの板チョコを囓った。口の中に甘さと独特のほろ苦さが広がる。
いつもは怒られるまで食べるそれも、しかし、あまり美味しく感じられなかった。半分ほど食べて、二人は無言で銀紙に包み直した。
暦の上で春になったとはいえ、さすがに夜はまだ冷える。月の光は冴え冴えと降りそそいでいる。
風が吹き抜けた。轟と切り裂くような音と、なぎ払うような空気の腕が二人を襲った。
昼の陽気に合わせて選んだ服を易々と通り抜けるそれは、容赦なく少年と少女の熱を奪う。
震えの止まらない身体を抱きしめて、じっと夜明けを待った。
朝日はまだ顔を出さない。

8 名前:結構アレな話 :02/05/02 17:11
それは学校の創立記念日と土日の休みが繋がった三連休の前、木曜日に起きた出来事であった。
マンションの隣り部屋に住んでいる彼らは、物心ついた時から二人で遊んでいた。
家の前の公園で砂遊びする時も、ブランコでどれだけ早く漕げるか競う時も、滑り台をどちらが先に滑るか揉めた時も。
常に一緒だった。横を見れば、そこには君がいる。二人で一つ、それが当たり前だった。
――これから先も、ずっと、ずー……っと一緒、だよ?
幼心に告白したその晩に少女は、父親の無慈悲な通告によって、頭を金槌で殴られたように固まった。
「喜んで良いぞー。今度お父さん達な、新しい家を買って引っ越すことにしたんだ」
喜べるわけがなかった。それはすなわち少年との別離であり、少女にとっては死刑宣告であり、神の下した罰にも等しいものだった。
泣いた。
嬉しそうな両親を悲しませないために、自分のベッドに潜って声を殺しながら。布団の中で、肩だけを震わせながら。
涙は止められなかった。枕が濡れるのも構わず、顔を押しつけてじっと堪えていた。
次の日は学校に行こうと誘いに来た少年と顔を合わすことが出来ず、一日をベッドで丸くなったまま過ごした。
母親が御飯を持ってきても、父親が心配して見に来ても、「大丈夫だから出てって!」と癇癪を起こして追い返した。
けれど、どうしようもなくお腹が空き、何か食べようと夜中に部屋を出て、台所でとんでもない物を見てしまった。
綺麗に三角に握られたおむすびと、不格好だけどそれなりに形を整えてある御飯のかたまり。
母と父が、彼女ために作ってくれたであろうそれを部屋に持ち帰って食べていると、また涙が出た。
(お父さんもお母さんも、意地悪がしたくて引っ越すって言ったんじゃないんだもん。私が拗ねてちゃ駄目、だよね?)
少年の顔を思い浮かべ、おむすびに口をつける。
それはちょっぴり、しょっぱくなっていた。

9 名前:なんだかなあって :02/05/02 17:12
「あのね、お父さんがね、今度引っ越す、って言ってたの。……どうし、よう」
少年が二人で出かけようと思い立った理由は、ぽろぽろ零れ落ちる少女の涙と、くしゃくしゃになった彼女の泣き顔だった。
いつも通り公園で遊んでいたのに、急に少女が泣き出した時はどうすればいいかと慌てた。
ベンチに座って落ち着くように言って理由を聞くと、今度彼女のお父さんが家を買って、そこへ彼女も引っ越してしまうとのことらしい。
そうなればきっと、二度と彼女に会えなくなる。
まだ十分に世の中のことを知らない少年でも、それぐらいははっきりと認識できた。
じゃあどうする? 彼女を連れて逃げてしまえば……。しかしそれは無理だった。
はっきり言って子供である自分が、彼女を守ることなど出来るはずもない。悲しませることになるに決まっている。
だけど、このまま離れ離れになるなんてどうしても我慢できなかった。
「一緒に、どこか行こうよ」
「え?」
無意識に口を突いて出た言葉に、少年も驚いた。自分は何を言ってるんだ。馬鹿か、僕は? そんなこと言ってどうしようって――。
「一緒にって、二人だけで? 行くってどこに?」
少女が目をこすり、涙を拭いて少年に尋ねる。もう後戻りは出来なかった。
「……あのさ、前に学校の遠足で行ったあの山、覚えてる?」
覚悟を決めて、必死に頭を回転させて、少女にそう言う。彼女は「うん」と小さく頷き、少年の言葉を待つ。
「明日の日曜日。電車に乗って、そこに行こう。それで、一緒に朝日を見ようよ。絶対に忘れられない思い出を作ろ?」
彼女にとって、それは遠回しな「さよなら」に聞こえたかも知れない。けれどそれが少年の精一杯で、子供の限界だった。
その日は明日の準備をすることにして、二人は家に帰った。
少年は電車の時刻表と格闘し、何時、どの電車に乗ればいいかを一生懸命に調べた。
今まで貯めていたお小遣いを、貯金箱から取り出して財布にねじ込んだ。家にあったお菓子をありったけナップザックに詰め込む。
準備は出来た。後は実行に移すだけ。
少年はベッドの下にナップザックを隠して床に就いた。悪いことをするようで、心臓が激しく鼓動を続けていた。

10 名前:書いてる途中に思ってたけど :02/05/02 17:13
寒さを誤魔化すように、二人はたわいもないことを話し合った。
少女が休んだ日に学校であったこと。
遠足で来た時は気がつかなかったけれど、結構ここが低い山だったことなど。それは二人が成長した事の証明だったが、
話に夢中になった彼らはそう思い至ることはなかった。
月が南中に昇り、ゆっくりと西に沈んでいく。
並んで空を見上げる姿はどこかもの悲しく、寄り添う二人は何か寂寥を感じさせる。
二度連続でくしゃみをした少年が笑い、少女もつられて笑みを返す。
「朝日、まだかな……」
「そうだね。さっき時計を見たら、もう五時を過ぎてたからもうちょっとだと思うけど」
少女はギュッと少年の手を握った。熱っぽい彼女の掌は、少年によって強く握り返される。
「五時、かぁ……。私たち、不良になっちゃったね?」
「そうだね……」
役目を終えて退場していく月を眺めながら答えて、そこで言葉が尽きた。
途端に夜の静寂が二人に忍び寄る。正体不明の瞳がどこかからか彼らを見つめ、その牙の餌食にしようと狙っている。
理解不可能な叫び声が空の彼方から聞こえ、徐々に近づいてくるような錯覚。
ただ手を握り合うことだけが二人を繋ぎ、未知の恐怖から逃れる唯一の術であった。
そして、漸くに東の空が白み始めた頃、魔物は姿を現わした。
少女が、少年の膝の上に倒れ込んだのだ。初めは眠気に負けて意識を失ったのだと思った彼も、彼女の異常な体温には目を見開いた。
初春の夜、その寒気をなめてかかっていた。春の行楽なんて気持ちで出かけては駄目だったのだ。
彼女の身体が抗うように脈打っている。体温を保とうと、必死に熱を生み出し続けている。
(どうしよう。どうすればいい。今から山を下りても一時間は掛かる。間に合わないかも知れない。彼女が死んだら、僕のせいだ――)
目眩のするような衝撃にただただ彼女を抱きしめる少年の耳に、吐息ともつかぬ少女の声が届く。
「えへへ、ごめんね……。ちょっと眠くなっちゃって寝ちゃったぁ……。ん、もう大丈夫だから……ごめんね」
嘘だ。嘘に決まっていた。少年の目には、真っ赤な顔をして無理に笑う少女の顔が映り、強がる彼女の姿はあまりにも酷だった。
ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちて、自分の愚かさを嘆いて、手を伸ばして彼女の頬を撫でてその熱さに絶望し、
「……あ」
少女の声で顔を上げた。
「朝日、だね……」
遅すぎた太陽が彼らを照らし、輝いていた。少年にはそれよりも、少女の微笑みが眩しかった。

11 名前:客観性を欠いていたので :02/05/02 17:14
「うわ、何? 人を見て涙ぐまないでよ、気持ち悪い」
魔法瓶から温かいココアをコップに注いで、少年に渡そうとした少女は顔をしかめて非難した。
その手からコップをひったくられる。鼻を鳴らし、少年は縁に口つけながら、
「だって、昔のことを思い出したんだもん。仕方ないじゃん」
そう言って拗ねたように睨みつけた。
彼女はその視線をなかったもののように受け流して、からからと笑う。
「ん? ああ、ほんと、馬鹿だったよね、あれは。もうちょっと、厚着してくればいいのにさ。しかも、プラスチックの水筒なんかねー」
は鈍く光る魔法瓶を手に、彼女は「文明の利器万歳」と謳ってみせる。それがあまりにも子供っぽくて、少年は苦笑した。
「あの頃はそれが精一杯だったんだよ。それに、小父さん達が来てくれなかったら、本当に君は死んでたんだぞ?」

少年はそれを鮮明に思い出せる。空に向けて彼女の名を叫んだその時に、茂みから飛び出してきた彼女の父と、きししと笑う少年の母が、
見事な連携で彼にラリアットをかましたことを。
「好きなら好きでいいがな、もう少し考えて行動しろ! くれてやらんぞ!」
「未来のお嫁さんに風邪を引かせていいと思ってるの、この馬鹿息子!」
多分一生忘れることの出来ないセリフを吐き、意識を失った彼女を担いで二人は山を下りていった。
後に残された少年は、口に手を当てて上品に笑う小母さんと、お前も大変だなと視線を投げかける父に手を引かれて山を下りた。
道の脇に停めてあった車に乗せられ、気が抜けて少年は寝た。そのまま丸一日眠りこけた。
起きたら彼女の熱は下がっていて、二人して少年の母と少女の父に説教を食らった。
駆け落ちするならもっと上手くやりなさい。時刻表を出しっぱなしで詰めが甘い。ザックにお菓子なんか入れずにお金をくすねて放り込め。
上着を持ち歩くのは常識だ。寒いなら裸になって暖めあえ――など、およそ親が子に教えるには間違っている事を切々と説かれた。
まだ無垢だった彼女はともかく、それなりに知識を持っていた少年は裸云々のところで赤面した。
最後に、ごほんと喉の調子を整えて彼の母が言った一言はあまりにも痛烈で、
「……心配しなくてもね、私たちもお隣に引っ越すのよ?」
二人を呆けさせるには十分すぎるものだった。

12 名前:如何なものだろう? :02/05/02 17:15
「でもさ、ほんと笑ったよね。まさか引っ越し先の隣りに、君の家も引っ越すなんてさあ」
ポリポリとスナック菓子を頬張りながら、少女は口を開く。滓を飛ばさない辺りはさすがと言えるが、どう考えても下品である。
「ほら、食べるか喋るかどっちかにしなよ。そんなことじゃあ――」
少年の前に、パッと少女の手が突き出された。空いた方の手でココアを流し込み、口の中のものを飲み込んで、彼女は一息ついた。
引き込まれるような蠱惑的な笑みが彼の心を捉える。
「お嫁にいけないってぇ? んふふ……そんなこと、君が言っていいのかなぁ?」
「……え? ま、まさか、あのときの言葉、聞いてたの?」
少年から血の気が失せた。ばかな、君はもうほとんど意識が無くて、あのときは夢現のはずで……?
「お父さんと、小母さんが叫んだ言葉? さあ、どうでしょー」
意地悪く、きししと少女は笑った。声を失った少年に対し、にこにこと余裕を見せる彼女は明らかに昔の面影はなかった。
「……知ってたんなら言ってくれればいいのに」
年々自分の母親に似てきている少女に、どうしてこうなったんだと溜め息を吐いて、少年は冷めかけのココアを飲み干した。
飲み終わったコップを、一振りしてから彼女に手渡す。手慣れた様子で魔法瓶の蓋に戻し、少女は少年の肩にこつんと頭を預けた。
指で時計を指し、今が何時かと催促する。
「ちょっと、待って……」
腕時計のバックライトをつけて時間を確認すると、後数分で六時である。「あっそ」と答えて、少女は口を閉ざした。
それから二人で白み始めた空を黙って眺めていて、ふと思いついた少年は尋ねた。
「ところでさ、毎年ここで朝日見てるけど、飽きない?」
「ちょっと黙っててくれるかな」
「……はい」
強い口調でそう言われ、黙ってしまう辺りが情けない。けれども反論しようものなら、またやり込められるので口を開けない。
じっと、山の端を見つめて朝日を待つ。
うっすらと空と大地の境界が滲み始め、赤い太陽がその姿を現わし、
「ねぇ」
「ん?」
思わず少女の方に振り向いた少年は、もう何も言えなくなった。
彼の唇が、彼女の唇で塞がれていた。
初めてのキスは、甘いココアの味だった。