家庭料理のスゝメ

家庭料理のスゝメ


[404]
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(0)プロローグ

 夜景の見えるレストラン。値の張るフレンチのフルコース。目の前に座る男は一張羅のスーツにネクタイ。
 何かあるな、とは思っていたが、これは完全に予想外だ。

 無造作にテーブルの上へ転がされたのは、手のひらにすっぽり収まるような小さな箱。中央には目を見張る大きさと輝きのダイヤモンド、の指輪。

「なにこれ?」
「見りゃ分かるだろ」

 どんな表情したって美形は美形だけど、眉間に皺を寄せたしかめっ面はプロポーズをする男の顔ではない。仇のようにこちらを睨む男を視界から追いやって、私は興味深くケースから指輪をつまみ上げた。照明にかざして見るブリリアント・カットのきらめきが目に眩しい。

「偽物?」
「この俺が婚約指輪に偽物なんか贈るかよ!」
「本物か。へえ、ダイヤモンドなんて初めて見た」

 ダイヤモンドの相場なんて知らないが、この大きさなら随分と値が張るんだろう。給料の三ヶ月分? こいつの一月の給料がいくらかなんて私の人生にはこれっぽっちも役に立たない知識だ。台はプラチナか。よく見ると指輪の内側に『T to Y』の文字が刻まれている。Tは太郎のT、目の前にいる男のイニシャルだ。

 一通り眺めて満足すると、曇り一つ無く磨き上げられた指輪を慎重にケースへ戻し、もとあった場所へ押し戻す。

「で、誰と結婚するの?」
 にこやかに微笑みながら訊ねると、男は悶えるように机に突っ伏した。

(1)太郎

 太郎と関係を持ち始めてどのくらいになるだろう。ベッドの上で抱き合いながら、ぼんやりと遠い記憶を探ってみる。身体を重ねるようになったのは太郎が大学浪人していた時からだから、もう十年になるのか。付き合いはそれより古く、中学の時までさかのぼる。



  ***



 学校の帰り道、通りかかった家の前に一人の少年がうずくまって座っていた。
 見た目だけは天使のようなフランス人ハーフ、斉藤太郎。不用心にも真新しい一軒家の門扉の前で、壁に頭を預けて眠っている。

 顔と名前だけは知っていた。クラスは違うが同じ学校の生徒だし、見た目からして彼は何かと目立つ存在だった。表札を見るとこの一軒家は彼の自宅らしいが、十一月の夕暮れ時に吹きさらしの玄関先でうたた寝とは、風邪をひきかねない危険な試みだ。

 放置すべきか悩んでいると、彼はぶるりと震えて一つくしゃみをした。そのまま首をすくめて長い手足を縮め込み、再び夢の中へ。まるで亀だ。

 その様子があまりにも滑稽で、小さな親切心がわいた。

「斉藤君、そんなところで寝てると風邪ひくわよ」
 遠慮気味に揺らすが目覚めない。思い切って叩いたり抓ったりしてみるが、ウンともスンとも言わない。

 その内にぽつぽつと雨まで降り出して、私は彼の耳を思いっきり左右に引っ張った。これでも起きないなら見放して帰ろうと思っていた。

 果たして彼は目を覚ました。

「ってえ!」

 ぱちっと開いた釣り気味の瞳は日本人よりだいぶ薄い茶色。寒さに血の気のひいた青白い頬は怒りでわずかに紅潮し、痛みに目が潤んでいる。

 性を感じさせない美少年が目の縁を赤くしてこちらを睨んでくる様子は何とも言えず色っぽかった。男だって陥落できそうだ。

「ああ? なんだてめぇ」
「ごめんごめん。雨降ってきたから」
「は?」
「そんなところで寝てると風邪ひくよ」

 それは傘を持たない私も例外ではない。言うだけ言って帰ろうとする私を、彼はさっと腕を掴んで引き留めた。確かに起こし方は少々乱暴すぎたかもしれない。

「……耳引っ張ったのは悪かったわよ」
 素直に謝る。しかし彼の言いたかったのは苦情ではないらしい。

「あんたの家、この近く?」
「……すぐそこのアパートだけど」

「今日家の鍵忘れて入れないんだ。雨宿りさせてよ」
「…………」

 その胡散臭い微笑みにほだされたわけではないが、私は彼を家に入れ、夕食までご馳走してやった。仕事中毒の気のある父親は深夜まで帰ってこない。彼は中学生の割に体格がよく私より頭一つ分長身であったが、その綺麗な顔立ちのせいか密室に二人っきりでも身の危険は感じなかった。

「あんた、料理上手いなあ」
「別に普通だと思うけど」

 小さな四角いこたつ机を挟んで座り、ジャガイモとタマネギの味噌汁をすする。真ん中に置かれた深皿には色気なく盛られた肉じゃが、あとは白菜の浅漬けと昨日の残り物のきんぴらごぼう、ほうれん草のお浸し。白米は帰ってきてから炊いたから、ふっくらと柔らかく美味しそうだ。

 特別な物は何もない。けれど彼は嬉しそうに目を輝かせて、一口一口味わうように料理を頬張った。

「こういうメシって久しぶりだ」
「普段は何食べてるの」
「出来合いの弁当とか、コンビニとか、出前?」
「親は?」
「共働きで、母親帰ってくるの遅いんだ。ま、いても料理すっげえ下手なんだけど」

「お母さんの方がフランス人なんだっけ」
「そうそう。俺が言うのもなんだけど、あんなさえない親父と何で結婚したのかわかんないくらい美人。今度紹介するよ」

「……? はあ」
 初対面の少年の親を紹介されなければならない理由は何だろう。

「おふくろもさ、働いてない頃はちゃんとメシ作ってくれてたんだけど」

「フランス料理?」
「それも無いとは言わないけど。あ、フランス料理つってもフランスの家庭料理な。けど俺も親父も米の方が好きだから、和食の方が多かったかな」

「結婚してから日本に来られたの?」

「そうだよ。日本語覚えたのも結婚してから。それまでお互い片言の英語と日本語ごっちゃで会話してたんだって。それでよく結婚する気になったよなあ。おもしれえの、うち、おふくろの方が親父にベタボレなんだよ。親父の方が背低いし、ハゲてんのに」

「ふうん。じゃあ慣れない日本の料理も頑張って研究したのね。素敵なお母さんね」
「……下手だけどな」

 そう言いつつ、彼は照れているのを隠すようにきんぴらを租借した。中々可愛いところもある。

「それにしても、あんたの料理すげえ俺好み」
「そりゃどうも」
 開けっぴろげに人を褒めるのはフランス人の血だろうか。

「また食いに来てもいい?」
 恐ろしい勢いで残り物を片付けていく彼に肩をすくめ、
「こんなものでよければ、いつでもどうぞ」
 と言ったのは勿論、社交辞令のはずだった。



 ところがそれから、彼は頻繁に私の家を訪れるようになった。初めは夕食目当てに時間を見計らってやってきていたのが、いつの間にか関係なく家に入り浸るようになり、休日には朝からやってきて日が沈むまで居座ることもあった。彼は最初から私を名前で呼び、私もその内に彼を名前で呼ぶようになった。

 人種の違いかほかの中学生男子より頭一つ抜けた太郎はバスケ部のエースで、その容姿と併せてとても女子に人気があった。だからといって男子から嫌われていた風でもなく、外向的な性格で友達も多くいた。先輩からは可愛がられ、後輩からは慕われ、大して成績が良いわけでもないのに教師からも目を掛けられる。黙っていてもそうでなくても、太郎はその容姿と持ち前の明るさで自然と人を惹き付けた。

 私たちは気の置けない友人だった。アパートでの二人きりの時間を、私たちは思い思いの方法で過ごす。大抵は本を読んでいるか、宿題を片付けていることが多かったが、太郎は小さな子供が母親にするようにその日あったことを私に報告したがった。忙しい両親の代わりに、『家族の会話』に餓えていたのかもしれない。私は何を言うでもなくただ太郎の話を聞いていた。

 遅刻して担任に怒られたこと、隠し持っていた漫画を没収されたこと、その日の昼食の内容、友達との会話、部活で監督に注意されたこと。告白された女の子の名前やラブレターの内容まで話し出した時には流石に止めたが、その時々に付き合っている女の子のこと、ファーストキスの相手の名前、初体験の感想、普通の年頃の女の子なら思わず赤面してしまうような話まで、太郎はなんでも包み隠さずに話してくれた。

 太郎はもてた。中学校で付き合った女の子の数は両手で足りないくらい。お世辞にも真面目とは言い難い男だから、付き合う数も一度に一人とは限らなかった。そういう不誠実な態度は私の好むところではなかったが、双方納得の上だというのだから、他人が口出しするようなことでもない。その頃はまだ、私と太郎は学校でもよく顔を合わせていたから、幾度か男女関係のトラブルに巻き込まれたこともあった。



「宮本さんって斉藤君と仲良いわよね。付き合ってるの?」
「友達だけど」
「なら、この手紙斉藤君に渡してくれないかな」

 差し出されたのは女の子らしい桜色の封筒。太郎宛のラブレターを頼まれることは珍しいことではなかったが、その度に私は首を横に振っていた。

「どうして? 別に斉藤君と付き合ってるわけじゃないんでしょう!?」
「そういうのは、自分で渡した方がいいよ」

「渡せないから頼んでるんじゃない! ……もしかして宮本さんも斉藤君のこと好きなの?」
 下世話な勘ぐりだ。

「まあ、友達としては。……あのね」
 嫉妬の滲んだ表情で睨まれる。せっかくの可愛い顔が台無しだ。

「手紙だけ渡されても、あいつは顔も知らない人とは付き合わないと思うよ。せっかくの美少女なんだから、直接行ってアピールした方がいいと思う。ちょうど今あいつフリーだし」

 美少女はちょっと驚いた顔で私を見たが、フリーだと知るや慌てて体育館の方へ走って行った。今なら太郎は部活の準備中で体育館の部室にいる。

 太郎はあれですごぶる面食いだが、学年一と名高い高山彩子なら無事次の彼女の座を獲得できるだろう。

 その日の夜、太郎の報告で予想通りに彼女の恋が叶ったことを知らされた。


 それから数日後の昼休み、私は高山彩子とその友人たちに校舎裏へ呼び出された。校舎裏は教職員用の駐車場になっていて、この時間には人気もない。他人に知られたくない話をするにはもってこいの場所なのだ。

「なんで呼び出されたか分かってるわよね?」
「……心当たりはないんだけど」

 怒っていても高山彩子は美人だった。ふっくらとした唇にはピンクのグロス、校則に引っかからない程度に染められた髪を緩く巻き、サイドで団子にして毛先は垂らしてある。色白で華奢な身体は庇護欲をそそる。下品にならない程度にスカートを短く改造し、すらりと長い脚には野暮ったいルーズソックスなどではなく慎ましい紺のハイソックス。女の私でもため息をつきたくなる文句なしの美少女だが、やはり太郎の隣に立つとなると霞む。背だけぐんぐん伸びて、ほかはまだ幼い太郎は、一見女の子と見間違う繊細な顔立ちをしていた。

「わたし、今、太郎くんと付き合ってるの」

 勝ち誇ったように言う彼女に、私はうなずく。私はその日の内に太郎から知らされたが、学校でも翌日からその噂で持ちきりだった。

「分かってるなら斉藤くんに近付くんじゃないわよ!」
「斉藤くんの彼女は彩子なんだからね!」

 高山彩子と一緒に来た女の子たちが口々に言う。何人かは顔見知りだった。過去に私に太郎との橋渡しを頼んできたことがある。

「いくら付きまとったって、あんたなんて相手にもされないわよ。そんなことも分からないの? 鏡見たことある?」

 高山彩子は完全に見下したように私に言う。なんというか、我が儘な王女様といった感じで可愛らしい。

「あいつとは友達だって言ったと思うけど」
「友達のふりして太郎くんのこと狙ってるんでしょ! ブスのくせに!」

「まあ、あいつは面食いだけど、友達は顔で選ばないから」

 高山彩子はかっと顔を赤くして私を突き飛ばした。が、そんなか細い腕で突かれたくらいではどうなるはずもない。

「なによそれ! わたしが顔だけって言いたいわけ!?」
「え? 性格も気位の高い猫みたいで可愛いとおもうけど」
「はあ!? あなたわたしのこと馬鹿にしてるの!?」

 頭に血が上りすぎて、彼女は涙目だった。とりあえずポケットからハンカチを出して渡す。

「高山さんは、全く相手にされないようなブスな友達でも女の子があいつの側にいるのが嫌なのね?」

「当たり前でしょう! 彼女なんだから!」
 その理屈はどうかと思うが、理解は出来る。

「うん。じゃあなるべく近付かないし、話さないようにする」

 あなたの前では。

 条件付きだが、太郎との関係は私の方が古いのだ。高山彩子のために一人友人を失う理由は無い。

 あっさりとそう言った私に彼女らは逆に拍子を抜かれ、顔を見合わせた。高山彩子だけは何故か変な顔で私のハンカチを握りしめ、私と目が合うと慌ててそっぽを向く。

「じゃあ、用事がないなら行くね。昼休み半分過ぎてるから、早くお昼食べた方がいいよ」



 太郎と高山彩子はそれから一月もしない内に破局した。太郎は一人っ子な上にあの容姿で幼い頃からちやほやされながら育ったから、少々我が儘で傲慢なところがある。それも彼の魅力の一つとも言えるが、王女様気質な高山彩子とは合わないだろう。お互い容姿だけを気に入って付き合っていたのなら、飽きれば終わりだ。そんなことは最初から分かっていた。

 二人が別れてからも、私は外で太郎と会うのはなるべく避けるようになった。それでも太郎の恋人たちは警察犬並の嗅覚で私の存在を嗅ぎつけ、排除しようとしたが、相手の言い分に従って太郎を避けていれば、長くても三ヶ月で何も言ってこなくなる。太郎の飽きっぽい性格では一人の女性との交際が三ヶ月以上続いたことがなかった。



  ***



「おい……っ」
「……ん? なんか言った?」

 情事の時の太郎は恐ろしく妖艶だ。汗に濡れた額に紅茶色の巻き毛が張り付き、色欲で薄茶の眼がぎらぎらと輝く。

「抱かれてる最中に……っ、んっ、ぼーっとしてんじゃ、ね、えよっ!」

 私はぷっと笑った。初めて肌を合わせたときから、太郎に『抱かれている』と思ったことはない。どう考えても抱かれているのは太郎の方だろう。

「だって、暇だから」

 すっと首筋を撫でる。それだけで太郎は過敏に身体を震わせ、噛みしめた唇の間から濡れた吐息を漏らす。

 太郎は騎乗位が好きだ。私が自由に動けるから。どこもかしこも性感帯みたいなこの男はひどく感じやすい。悪戯に耳を舐めただけで射精したこともある。

「このっ……不感症……っ」

 私も騎乗位が好きだ。私が自由に動けるから。どれだけ前戯で頑張っても、生理作用でわずかに濡れるだけで『感じる』ことがないから、膣を突かれるだけのセックスは暇すぎて途中で寝てしまう。それよりこうして太郎を乱す方が楽しい。感じているときの太郎は素直で綺麗だ。

(2)父と母

 私の両親は私が中学に上がってすぐに離婚した。離婚するなら中学に入る前にしてくれればよかったのに、計画性のない親だと思う。感情的なところのある母親は発作的に離婚届を突きつけ、父親はそれを承諾した。分譲のマンションは母親の取り分となり、私は父親に引き取られて、父親の会社の側の小綺麗なアパートへ引っ越した。入学したばかりの中学を早々に転校する羽目になった。

 父親は決して情の薄い人間ではないが、完全な仕事中毒患者だった。家には寝るためにしか帰ってこない。会社に泊まり込んで帰ってこないこともままある。私が寝ている間に帰ってきて起きる前に出勤することも多かったから、寝る前にダイニングテーブルの上へ用意した夕食が減っているかどうかで父親の帰宅を知るような生活だった。

 ほとんど一人暮らしのようなものだった。一人暮らしだと思えば寂しくもなかった。週に一度くらいは朝食を一緒に食べられる。一人暮らしだと思えば、親と顔を合わせる機会は多い方だろう。

 たまに顔を合わせれば、父親は何かしら会話を求めた。私に気を遣っていることは分かっているから、親として知っておかなければならないことを手短に伝える。学校での成績、文化祭や体育祭の予定、進路。新しい下着や靴下の置き場所、家計簿の内容、冷蔵庫の調子がおかしいから新しいのを買うのにお金がいること。

 この家の家計は任されていた。父親は稼ぐだけ稼いで使うことに興味は無いらしい。毎月の給与が振り込まれる口座の通帳もカードも実印も、中学生の私に委ねられていた。その中から毎月父親の小遣いを渡す。私の小遣いは具体的には決まっていなかった。使おうと思えばいくらでも使い込める。自己抑制の手段として家計簿を付けるようになった。

 毎日目立つように机の上に置いておいた家計簿の存在に、父親はおそらく気づいてもいなかっただろう。それはそれでいい。太郎がウチでご飯を食べるようになってから、ほんの少しエンゲル係数が上がったが、父親は何も言わなかった。



  ***



「一回ちゃんと二人で挨拶に来なさい、って」
「え?」

 展望レストランのあったホテルの一室。先にシャワーを済ませた私に、バスルームから出てきた太郎はそう言った。唐突な台詞に眉を寄せる。

「親父とおふくろがさ。結婚する前に」
「うん、まあ普通そうでしょ」
 結婚相手を両親に会わせるくらい。

「いつなら空いてる?」
 太郎はバスローブのまま、頭を拭きながら仕事用の黒い鞄から使い込んだ牛革の手帳を取り出した。

「さあ」
「さあって」
「私が知るはずないでしょ」
 太郎の結婚相手の予定なんて。

「自分のことだろ!」
「え、私も付いてかなきゃいけないの?」
 太郎は深く深くため息をついて私を睨んだ。

「人の話聞いてたのかよ。二人で挨拶に行くって言っただろ」
「だから、太郎の結婚相手とでしょ。あ、やばい、もう行かないと遅刻」

「土曜だぞ」
「今日は休日出勤なのよ」

 ホテルに泊まるつもりはなかった。いつも肌を合わせるのは私のアパートか、太郎のマンションだったから。太郎のマンションなら着替えも多少置いてあるが、ホテルだと一度家に帰らなければならない。面倒がる私を無理矢理この部屋に連れ込んだのは太郎だった。

「そうだ、これレストランに忘れてたよ。大事な物なんだから、なくさないようにね」

 ドア横の棚の上に昨夜見せられた小さな箱を置く。オートロックだから見送りはいらない。私はそのまま部屋を出た。

「っておい、これはお前に……!」



  ***



 太郎の両親はとても仲がいい。父親は化粧品会社勤務の普通のサラリーマンだが、フランス人の母親は元モデルで、若い頃には私でも名前を知っている大ブランドの巨匠たちからコレクションのたびに熱望されたという。

 私は太郎の父親とは数度話をしたことがある程度だが、母親のセシルさんとは師弟の関係だった。私が師でセシルさんが弟子だ。初めてあったときのことがきっかけで、就職して一人暮らしを始めるまで、日本の家庭料理を教えていた。



  ***



 最初の出会いからこちら、太郎は毎日のように私の家に入り浸っていたが、私が初めて太郎の家に行ったのは知り合ってから半年も経ってからのことだった。夏季、珍しく学校を休んだ太郎からメールでヘルプ要請が来たのだ。

「夏風邪は馬鹿がひく」

 と言うが、まさに太郎は馬鹿だった。風邪をひいて、家で一人寝ているという。太郎のことだ、クーラーで身体を冷やしでもしたのだろう。見栄っ張りな奴だから、具合の悪いことを親に隠したがる。太郎の両親なら風邪をひいた太郎を一人で置いて仕事に行くようなことはしない。

 昼休み、学校を抜け出して一度家に帰った。冷却シートと氷枕、市販の風邪薬、冷蔵庫の中に転がっていたゼリーをエコバッグに詰め込み、太郎の家へ向かう。ベルを鳴らして顔を出した太郎は完全に病人の顔をしていた。

「お前、学校は」
「抜けてきた」

 太郎をベッドへ追い立て、汗だくのパジャマを脱がせる。電気ポットのお湯を水でうめて、絞ったタオルで簡単に身体を拭かせた。太郎は顔だけでなく身体も綺麗だ。見ていて恥ずかしさを感じさせない、芸術的な美しさがある。

 新しいパジャマを着せて、その間に替えのシーツの場所を訊き、ぬれたシーツを取り替える。ベッドに入った太郎の額にぺたんと冷却シートを貼ってやった。

「昼何か食べた?」
「……食欲無い」
「薬飲む前に何か食べて。はい、ゼリー」
 スプーンを差し出すが、受け取らない。

「食べさせてよ」
「は? いくつの子供よ」
「病人だぞ。少しは我が儘聞いてくれたっていいだろ」

「太郎の我が儘は今に始まったことじゃないでしょ。キッチン使わせてもらうわよ。冷蔵庫開けてもいい?」

 太郎は力なくうなずく。

「戻ってくるまでに食べ終わってなかったら、あんたの親の会社に電話して、私は帰るから」
「ちぇっ、冷てえの」

 冷蔵庫の中には思ったより食料が詰まっていた。朝炊いたらしい白米も、皿にラップして冷蔵されている。野菜室から大根、ほうれん草、生姜を取り出し、適当な大きさに切る。

 包丁はよく研がれ、鍋はぴかぴかに磨かれていた。どれもよく使い込まれている。立派なシステムキッチンとそれに相応しい道具たち。見かけ倒しでなく日常的に使われている台所だ。

 ウチの台所ももう少し広ければ。一軒家とアパートを比べること自体間違っているのだが、羨ましく思う。鍋に水を張り、野菜を茹でた。

「あ、そうだ薬」

 グラスに水をくんで、一度太郎の部屋へ戻る。言いつけ通りゼリーは食べたらしい。空の容器が転がっているのを確認して、薬を飲ませる。

「のどかわいた」
「はいはい」

 しまった、帰り道のコンビニでスポーツドリンクを買っておけばよかった。台所へ下りてゆで上がった野菜をザルに移し、火を消して近くのコンビニへ向かう。家の鍵は太郎から借りた。

 2リットルのペットボトルを二本買い、太郎の家に戻る。グラスに注いでやると、あっという間に2杯も飲み干した。台所へ戻り、昆布だしの中へ刻んだ生姜と野菜、米を放り込んで味付けし、卵を溶いて流し入れる。器に移して刻んだネギを乗せ、レンゲを出して太郎の部屋へ運んだ。

「太郎? 寝たの?」
 こんもり盛り上がった布団から返事はない。

(起きてから食べさせればいいか)

 切りのいいところまで面倒をみたら、学校へ戻るつもりでいたが、諦めた方がよさそうだ。枕元の目覚まし時計を見ながら息を吐く。足の短いテーブルの上に雑炊を置いて、ぼんやりと太郎の寝顔を眺めた。黙っていれば太郎は本当に天使みたいに綺麗だ。

 開け放った窓から入ってくる心地よい風がカーテンを揺らす。下からガレージへ入ってくる車のエンジン音が聞こえた。


 台所へ降りると、金髪の女性が鍋を覗き込んでいた。背が高く足が長い。高そうなサマースーツがよく似合っている。

 女性は振り返ると私を見つけ、僅かに眼を見張った。

「どちら様?」

 見た目は完全に外国人だが、その口から飛び出したのは流暢な日本語。私は慌ててお辞儀をした。

「太郎君と同じ中学の宮本有子です。お邪魔してます」
「太郎、家にいるのかしら?」
「はい。風邪をひいて、今薬を飲んで、眠ってます」
 女性はため息をついて眉間に皺を寄せた。

「やっぱり。朝から様子がおかしいと思ってたのよ。学校から登校してないって聞いて、お昼も食べずに慌てて戻ってきたんだけど……。あ、これ作ったのあなた?」

「すみません、勝手にキッチンと冷蔵庫の中身使わせてもらいました」
 その時、二階から足音を立てて太郎が降りてきた。

「有子、これお代わり」
 いつの間に起きたのだろう。空の器を持ったまま太郎は女性を見てげっと顔をしかめる。

「おふくろ、帰ってたのかよ」
「もう、あんたって子は。風邪ひいてるなら素直にそう言いなさい!」

「今日大事な商談があったんじゃねえのかよ」
「そうだけど。敬一郎さんだっているんだから」
「親父に病人看病させたら、絶対に悪化させるぞ」

「そんなこと……あるわね」
「だろ。おふくろも会社に戻れよ。有子が来てくれたし、俺は大丈夫だから」
 太郎のお母さんは私に目を向け、にっこりと微笑んだ。

「そうそう、この子、あんたの彼女? 紹介してよ」
「友達だよ。近くに住んでる、宮本有子。有子、これおふくろ」
「親に向かってこれとは何よ! 有子さん、私はセシル。よろしくね」

 セシルさんは太郎みたいな大きな息子がいるとは思えないほど若々しく、美人だった。外国人の顔はどれも同じように見えるが、彼女の笑い方は太郎とよく似ていると思う。後で婚前にモデルをしていたと聞いて、とても納得できた。普通の一軒家にいることに違和感を覚えるほどの迫力美女だ。

「あの、こちらこそよろしくお願いします……とりあえず、太郎君をベッドに戻した方がいいと思うんですが」

「あら、そうだったわ」
「有子、お代わり」
「それは部屋に持ってくから」
 太郎はぼーっと私の顔を見ていたかと思うと、いきなり抱きついてきた。

「まあ、この子ったら親の前で」

 そういう問題ではない。失神したのだ。いきなりでかい身体ですがりつかれてはどうすることも出来ず、私は太郎を乗せたまま床にしたたかに頭をぶつけた。陶器の茶碗は少し離れた場所で床にたたきつけられ、破片が飛んで私の首の皮が切れた。

「たっ、太郎!?」
「……セシルさん、ベッドへ運ぶの手伝ってください……」


 女二人がかりで太郎をベッドへ戻し、セシルさんはかかりつけの医者に往診を頼んだ。医者は点滴と薬を処方して帰って行った。ついでに私の後頭部のたんこぶと破片で切った傷の手当てもしてくれた。

「ごめんなさいね、女の子に怪我させて。親御さんにもお詫びしたいのだけれど」
「いえ、そこまでの怪我ではないので。親に変な心配をかけたくもないですし。それより、お仕事大丈夫なんですか?」

「ええ、そろそろ戻らないといけないのだけど……」
 太郎を残して行くのが心配なのだろう。

「あの、私看てますから」
「……そういえばあなた、学校は?」
「戻るつもりでしたけど、今から戻っても六限には間に合わないですし」

「そう、……本当に申し訳ないのだけど、じゃあ頼んでもいいかしら。七時頃には敬一郎さん……夫も帰ってくると思うから、それまで。
 家の中の物は自由に使ってかまわないわ。トイレはそこ、電話はあそこにあるから。それからこれ、一応合い鍵。帰るときに夫に返してね」

 セシルさんは洗面所で化粧を直し、家を出て行った。

「……あれ?」
 雑炊の鍋が空になっていた。


 午後六時ごろ、太郎が起き出してきた。昼より顔色がいい。汗を拭かせ、パジャマを着替えさせる。許可をもらったので汚れ物はまとめて洗濯機で回した。

「腹減った」
「なにが食べたい?」
「昼の残りは?」
「気づいたらなくなってた。セシルさんが食べたのかなあ」
 ランチも食べずに駆けつけたらしいし、腹が減っていたのだろう。

「おふくろめ……うどんが食いたい」
 うどんならスーパーまで買いに行かなければならない。

 その内に太郎の父親が帰ってきた。セシルさんと夫婦とは信じられないような普通のお父さんだった。中肉中背、野暮ったい眼鏡によれよれのスーツ。

「君が宮本有子さん? 妻から話は聞いてるよ。迷惑をかけてすまなかったね」
「いえ」
「私は斉藤敬一郎、太郎の父親だ」
 名刺をもらった。中学生にわざわざ名刺を渡すとは、変な人だ。

「夏は日が長いとはいえ、もうそろそろ暗くなる。今日はもう帰りなさい」
 はい、とうなずこうとしたところに異を唱えたのは太郎だ。薬のおかげで熱が下がったので少々調子に乗っている。

「メシ作ってから帰ればいいじゃん。家なんてすぐそばだし」
「太郎、これ以上迷惑をかけるんじゃない」
「だって腹減った! 親父料理出来ないじゃん」

「なんでも好きな物を出前すればいいだろう」
「体調悪いときに店屋物なんて食えるかよ。有子のメシがいい!」
「太郎っ!」

 言い合いを始めた二人を慌てて間に入って止める。熱が下がっているだけで、太郎はまだ病人だ。

「あの、よければ夕ご飯作らせてください」
「しかし……」
「父は帰りが遅いので、家に帰ってもどうせ一人ですし」

 斉藤父は渋々同意すると、スーパーまで車を出してくれた。家を出る前に炊飯器をセットし、太郎をベッドに寝かしつけておいた。

「君は太郎と付き合っているのかい?」
「いえ、友人です」
「そうか……太郎は君のことが好きみたいだが」
「まあ、友達ですから。太郎くん、彼女いますよ」
「そうなのかい? うーん、でもなあ」
 私は首を傾げる。

「そういう話、しないんですか?」
「ああ。思春期だしね、恥ずかしいんだろう。最近は学校のことはあまり話さないかな」

 多分、全部私に話してしまうから、それで満足しているのだろう。

「昼に妻と会ったんだってね。妻が料理上手だと褒めていた」
「普通だと思います」
 やはりあの鍋はセシルさんが食べたのか。

「……こういう言い方はアレだが、妻はあの通り、なんというか……私とは釣り合わないほどの美人でね」

 私はちょっと笑った。のろけられているのだろうか。
 しかし斉藤父は真面目な表情でハンドルを握ったまま話し続ける。

「妻とは仕事の関係で知り合ったんだが、その時はお互い片言の英語しか話せなかった。あ、妻はフランス人なんだよ」

「はい、知ってます」

「私の何が気に入ったのか、仕事は終わったのに、なんだかんだ理由を付けて来日して、その度にいろんな場所に付き合わされて、その内に彼女が仕事を辞めて私のアパートに押しかけてきて、同棲するようになった。私はフランス語なんて話せないから、彼女の方が日本語学校に通って日本語を覚えた。今はあの通り、日本人並みに話すし字も書ける」

「あの……」
 どうしてそんな話をするのだろう。初対面の私に。

「妻は日本に来る前はモデルを生業にしていたんだ。コレクションの度に仕事が舞い込むし、ヨーロッパだけでなく日本の企業とも化粧品やら洋服やらのCM契約を結んでいた。多分年収は私の一生分の稼ぎより多かっただろうね。なのにこんな男を追いかけて日本へやってきた。それまで築いた地位も名声も全て捨てて」

「はあ」
「つまりね、私が言いたいのは、あの子がセシルの血を引いてるってことなんだよ」
「はあ?」
 それはそうだろう。セシルさんは太郎の母親だ。

「妻の血筋はなんというか……日本人には理解しがたいほど情熱的なんだ」
 斉藤父の言いたいことはいまいちよく分からなかった。


 スーパーで買い物を済ませ斉藤家へ帰ると、セシルさんが帰宅していた。

「あら、敬一郎さん。お帰りなさい。有子さん、帰ったんじゃなかったの?」
「太郎が我が儘を言ってね。夕食を作って欲しいと。帰りは私が家まで送るよ」

「まあ、有子さんのご飯おいしいものね。ああ、そうだわ、ごめんなさいね、お鍋の中身勝手に食べちゃって。お昼食べてなかったものだから、お腹すいちゃって。商談の前でどこかで食べる暇も無かったし……」
「あ、いえ、構いません。ここの冷蔵庫の中の物で作った物ですし」

「お料理作るの手伝うわ。すぐに着替えてくるから」

 太郎に散々言われていたから不安だったのだが、セシルさんは言うほど料理下手ではなかった。包丁の扱いは私よりよっぽど上手い。ただものすごく大雑把だ。料理のさしすせそは守らないし、平気で和風だしの代わりにコンソメを使おうとする。

 太郎のうどんは市販のめんとつゆを使って作った。薬味にネギをたっぷり盛る。風邪にはネギがいいとテレビでいっていた。具は鶏肉、卵、わかめ。私と斉藤夫婦は別メニューのトンカツだ。スーパーに行ったら豚の厚切りロース3枚入りが丁度安かった。

 お金は斉藤父が払ってくれた。私の食費も込みだが、そのくらいは甘えてもいいだろう。お礼は言っておいた。

 食卓が整う頃に、太郎が降りてきた。ご飯と味噌汁をよそい、四人で席に着く。みんなでいただきますを唱え、箸を持った。

 太郎はうどんをあっという間に平らげ、残った汁にご飯を入れて米粒一つも残さず食べた。これだけ食欲があれば明後日には学校へ行けるだろう。見ている内に欲しくなったのか、私の皿にまで魔の手をさしのべてきた。

「……欲しいなら言えばあげるのに」
「肉うめー」
「調子乗って食べ過ぎると吐くよ」

 行儀の悪い太郎を斉藤父がたしなめるが、多分反省していない。太郎が私の皿からおかずをかすめ取るのはいつものことだった。

 皿洗いは斉藤父の仕事らしい。手伝うと言った私をやんわりとソファに座らせる。お言葉に甘えて片付けは斉藤父に任せ、私はセシルさんが淹れてくれたコーヒーを飲んだ。太郎は当然薬を飲んでベッドの中だ。

「今日は有子さんに迷惑かけっぱなしだったわねえ」
「気にしないでください。太郎君は友達ですから」
「もしかして太郎、あなたの所でご飯食べてる?」
「……ええと、たまに」
 嘘だ。毎日のように食べている。

「通りで最近ウチでご飯を食べた形跡が無いはずだわ。あの子ったら。まあ、有子さんの料理が気に入る理由は分かるけど」

「すみません」
「どうしてあなたが謝るの? こちらこそ、太郎がお世話になって、ありがとう。そうだわ!」

 セシルさんは小走りに隣の部屋へ入っていくと、何かを抱えて戻ってきた。

「私、エステサロンを経営しているのよ。これはウチの会社のオリジナル製品なんだけど」

 高そうなボトルに入っていたのはバラの香りのシャンプーとコンディショナー、トリートメント、ボディソープ。化粧水と乳液も。

「よければ使ってみてちょうだい」
「いえ、こんな高そうな物もらえません」
「自社製品だもの、それにこれは試供品なのよ」

 試供品と言うには立派すぎる装いだが、セシルさんににこやかに押し切られてしまった。さすが会社を経営しているだけのことはある。押しが強い。

「……じゃあ、そろそろ送っていくよ」
 タオルで手を拭きながら斉藤父がやってきた。セシルさんも玄関まで見送ってくれる。

「よければ今度、料理を教えてもらえるかしら」
 社交辞令に軽くうなずく。

「はい、都合が合えば」
「本当!? 土日なら大抵家にいるわ。再来週の土曜日なら大丈夫かしら?」
「え!? ……あ、はい」

「じゃあ再来週の土曜日の昼に、ここで、いい?」
「え、と、はい」
「じゃあ気をつけて帰ってね」
 セシルさんは満面の笑みで手を振って見送ってくれた。
 二度目にしてようやく悟った。斉藤家には社交辞令は通じない。


「……その、妻が悪かったね。もし都合が悪ければ私の方から断っておくが」
「いえ、特に予定もないので大丈夫です」
 斉藤家とウチのアパートは本当に目と鼻の先だ。送ってくれた斉藤父も驚いていた。

「本当に近所なんだね」
「送って下さってありがとうございました」

「いや……宮本さん」
「はい?」

「もし太郎のことで何か困ったことがあったら、すぐに私に連絡してくれ」
「は?」

「セシルでもいいが、あいつはちょっとズレたところがあるから……」
「はあ」

「名刺を渡しただろう。持っているかい? そこに携帯電話の番号も書いてあるから」
「はい」

「何かあったらすぐに連絡するんだよ。いいね」
「え……と、分かりました」

 斉藤父は私がアパートに入っていくのを見届けて、帰って行った。斉藤父の言うことはやはり、いまいちよく分からない。

(3)進路

 私と太郎は同じ高校へ進んだ。似たような成績だったし、家から近い学校となると選択肢はそう多くはない。それなりの進学校だ。

 私たちの関係は相変わらずだったが、高校へ入ってしばらくすると、太郎はアルバイトを始めた。なんの仕事をしているのかは言わなかったが、ウチで夕食を食べる機会は減った。ご飯を食べなくてもウチに入り浸るのは相変わらずだ。

 寝転んで読み返すのが三度目になるミステリー小説を読んでいると、腹の上に太郎の頭が乗った。

「重い」
「あんたさあ、雑誌とか読まねえの?」
「たまには読むわよ。『週刊新潮』とか」
「そういうんじゃなくて!」
 太郎はちょっと大人向けのファッション雑誌の名前を挙げる。

「年に一度くらいは立ち読みするかも」
「ふーん、だからそんなダサいんだな」
 小説の角で殴ってやった。

「痛ってえな。あ、そうだ。俺明日から沖縄行ってくるから」
 学校は明日から三連休に入る。

「旅行?」
「バイト」
「沖縄に行くバイト?」
「そうそう。明後日には帰ってくるから、土産期待してろよ」

 二日後帰ってきた太郎はシーサーの携帯ストラップと泡盛をくれた。父親は家で酒は飲まない。もったいないが料理に使った。

 太郎のバイト先が判明したのはそれからしばらく経ってからのことだ。学校中が大騒ぎになった。

「これ斉藤くんでしょ!?」
「すごーい! モデルだったんだあ」

 雑誌を持った女子生徒や物見高い男子生徒が太郎の教室へ詰めかけた。昼休みには廊下に人だかりが出来る。太郎は生徒指導室へ呼び出された。

 クラスの違った私はただ騒ぎを遠くから眺めていた。太郎の顔立ちが人間離れして綺麗なことは出会ったときから分かっている。今更雑誌に載ったからといって何が変わるわけでもない。

 その日の放課後、昇降口で太郎と見知った女性を見かけた。

「セシルさん?」
「あら、有子さん」

 太郎の母親の金髪美女だ。放課後になって人気は少ないが、その場にいる生徒や教員はみんなこの美形親子に目を奪われていた。

「太郎のバイトのことで呼び出しですか?」
「そうなのよ。ちょっと雑誌に載ったくらいで騒ぎ立てるなんて、この子が調子に乗っちゃうわ」

 私は太郎に訊ねた。

「それで、先生はなんて?」
「とりあえず今まで通りの成績を落とさないことを条件に許可が出た」
「そう。じゃあ勉強も頑張ってね」
「他人事みてえに言うなよ、冷てえの」
 だって他人事だ。
 セシルさんは笑いながら太郎を小突いた。

「あんた、やるなら真面目にやりなさいよ。お母さん中途半端はゆるさないから」



  ***



 それから太郎はいろんな雑誌に載るようになった。教師との約束通り学校にはきちんと通ったし、成績もまあ元々そうよくはなかったが、それ以上落とすことはしなかった。学校内の騒ぎはしばらくして沈静化したが、校門で他校の生徒が出待ちするようになった。受け取るラブレターは三倍に増えた。

 ころころと変わる恋人の内容がモデルやタレントになったというだけで、私といる時の太郎は相変わらずだ。当然のように夕食をねだりにやってくる。太郎は太りにくい体質で、モデルだというのに食事制限なんて一切やらなかった。私は嫌がらせのようにカロリーの高い食事を作ってやったが、しばらくしてから増えた自分の体重を見てやめた。

「今日のカメラマンぜってぇホモだぜ。そういうの多いとは聞いてたけどさあ。俺見てなんて言ったと思う? ヌード撮らせてくれだって! 冗談じゃねえよな」

「なんで?」
「はあ? ヌードだぜ? 真っ裸。恥ずかしいじゃん」
「あんたの身体なら別に恥ずかしいこともないでしょ。綺麗だし」

 太郎はぽかんと口を開けて私の顔を眺めていたが、段々と顔を赤くしてクッションを投げつけてきた。

「いつの間に俺の裸なんて見たんだよ、このスケベ!」
 部活帰りに押しかけてきて、勝手にシャワーを使った上、タオル一枚で部屋を闊歩してくれたのはあんただろうが。

「でもやっぱ裸はねえよな。さすがに学校の許可が下りねえよ」
 下りたらするつもりなのか。


 高校二年生になって、太郎は理系クラスへ進んだ。私は文系クラスだ。国語は得意だが英語は壊滅的だった。太郎は日本語の他に英語とフランス語が話せる。フランス語はセシルさんに教え込まれたらしい。日本語が上手すぎて時々忘れかけるが、セシルさんはフランス人で母方の親族は皆フランス人、もちろんフランス語しか話せない。娘の夫はどうでもよくても、孫と会話が出来ないのは祖父母としてつらいらしい。親に泣きつかれセシルさんは太郎が小学校に上がる前からフランス語を叩き込んだそうだ。そのせいか、太郎は国語が苦手だった。


 高校三年の夏、私は生徒指導室へ呼び出された。教師から注意を受けるような素行の悪い行いに心当たりはない。行ってみると要件は太郎のことだった。

「斉藤のことだが、あいつの進路がどうなってるか知らないか?」
「なんで私に訊くんですか?」

「斉藤のお母さんが、三者面談の時に斉藤のことはお前の方が詳しいと仰っていたぞ。お前ら付き合ってんのか? そんな風には見えないが……っと、スマン」

 太郎と私の外見的釣り合いが取れていないのは自覚している。謝れる方が馬鹿にされている気分だ。

「付き合ってませんが、斉藤は親しい友人です。でも進路のことは知りません。調査票出してないんですか?」

「一応提出させているが、適当だな。進学だったり就職だったりころころ変わる。なあ宮本、斉藤と仲良いんだったらちょっと話をしてみてくれないか? 就職にしても進学にしてもそろそろ本腰を入れないとやばい時期だ」

「先生は斉藤と話したんですか」
「呼びだしても応じないから、無理矢理引っ張ってきてな。けど真面目に考えようとしないんだよ」

「ご両親とは?」
「電話で話した。斉藤と話をしてみるとは言っていたが、五月頃の話だな」

「……分かりました。斉藤に訊いてみます」
 太郎の担任はほっとした顔で言った。

「頼んだぞ宮本。友達の一生のことだからな」


 私の進路は決まっていた。地元の大学へ進学する。夏休みは受験勉強の山場になるはずだった。その忙しい時期に他人の進路を相談するとは、太郎の担任も何を考えているのか。

高校生ともなれば自分の進路くらい自分で決めるべきだろう。放っておいてもよかったのだが、太郎と膝をつき合わせる気になったのはあの教師の言葉が耳に残っていたからだ。

『友達の一生のこと』

 太郎が道を踏み外して今後転落人生を送ることになったら、友人として悔やみきれない。あの綺麗な親友を私はそれなりに好いているのだ。


 その日遅く、太郎は香水の匂いをさせて家へやってきた。夕食は恋人と済ませたという。今の恋人は確か、最近ちょい役で出演したドラマで知り合ったという女優だ。ついでにホテルにでもしけ込んできたのだろう。

「太郎、ここに座って」
「なんだよ来て早々。俺疲れてるんだけど」
「いいから座りなさい」
 有無を言わさずカーペットの上へ座らせる。太郎は渋々長い脚であぐらをかいた。

「正座よ」
「俺、正座嫌い」
「正座」
 太郎は脚を折りたたむ。

「なんだよ、今日は機嫌わりいな。ブスが酷くなってるぞ」
「太郎」
「……じょ、冗談だって」

 ただ名前を呼んだだけなのに太郎はばつが悪そうに俯いた。いまさら顔のことで怒ったりはしない。毎日鏡で見ている顔だ、自分が不美人だってことくらい自覚している。

「あんた、進路はどうするの?」
「進路? なんだよ、もしかして担任にでも頼まれた?」
 鬱陶しそうに太郎は顔をしかめる。

「頼まれたけど、私も大事なことだと思ったから訊いてるの。どうするの?」

「別に、適当にするよ」
「適当って? 進学する気あるの? それとも本格的にモデルになるの?」

「適当は適当だよ。あんたには関係ないと思うけど」
 私はため息をついた。

「進学するにしても就職するにしても今から準備するんじゃもう遅い時期だよ。あんたそんなに成績よくないし、モデルで食べてくならそれでもいいと思う。やる気があるならね。でも無理でしょ?」

「無理ってなんだよ!」

「本気でモデルになる気なんてないでしょ? 平気で夜更かしした顔で撮影に行くし、共演者のモデルと喧嘩して殴り合いになるし。ポージングもウォーキングも中途半端。よく練習サボってるって、マネージャーさんが愚痴ってたよ。かと言ってこの前のドラマの出来からして役者も無理。歌でも出してみる? あんた音痴だったわね」

「うるせえな。おふくろみたいなこと言うなよ」

「心配されてる内が華だと思いなさいよ。あんたももう十八なんだから、甘えてばかりいないで自分の道くらい自分で決めなさい。身体ばっかり大きくなって、中身は全然成長してないのね」

「黙れよ男と付き合ったこともないくせに! 自分だけ大人みたいな面してんじゃねえよ」

「処女膜破ったら大人なわけ? そういうところが子供だっていってんのよ。私だってまだ子供よ。でも子供だってことに甘えてていい年齢でもないでしょうが」

「……っ! 帰る! お前みたいに鬱陶しい女大嫌いだ!」

 喧嘩したことが無いとは言わない。しかし太郎に面と向かって『大嫌い』と言われたのはこれが初めてだった。思ったより胸に来る。

「……あんたのこと心配してるんでしょうが、馬鹿」
 太郎の出て行った玄関を見つめて、私は唇を噛んだ。


 その日、寝る前にセシルさんにメールを打った。

『太郎、家に帰って来ましたか?』

 すぐに電話がかかってきた。

『有子さん? 夜遅くにごめんなさい、今大丈夫かしら?』
「はい。寝るところだったので」

『太郎ね、帰ってきたと思ったらただいまも言わないで部屋に上がっちゃって。あの子と何かあったの? 喧嘩でもした?』

「ちょっと、進路のことでうるさく言っちゃって」
 受話器の向こうでセシルさんはため息をついた。

『なるほどね。学校で頼まれた? 私もあの人も話してみたんだけど、あの子ったら真面目に答えないのよ。有子さんにまで迷惑かけちゃって、ごめんなさい』

「いえ、友達の一生のことですから」
『ほんと、有子さんみたいな友達があの子にいてくれてよかったわ。ついでにお嫁にきてくれると助かるんだけど』

「すいません、一生太郎の面倒みるのはちょっと……」
 セシルさんは笑いながら言った。

『そうよねえ。我が子ながら、見た目だけは結構レベル高いと思うんだけど、中身は小学生のガキだもの。有子さんには釣り合わないわよね』

「かなり強く言ったので、今日はなにも言わずそっとしておいてあげてください。これでも態度を変えないようなら、色々攻め方を考えますから」

『ええ』
 私は少し考えて、セシルさんに尋ねた。

「あの、もし太郎が本格的にモデルの仕事をやりたいって言ったら……太郎やっていけると思いますか?」
『外見だけは一級品だもの、本気で努力すればいいとこまでいくと思うわよ。でも今の調子じゃ先はないわね』

「セシルさんは、太郎にどうして欲しいですか?」
『そりゃあ大学に行ってちゃんとした会社に就職するなりしてほしいけど。あの子の本当にやりたいことが別にあるなら、止めはしないわ』

「……太郎って愛されてますね」
『そうね。あなたも、太郎のこと愛してくれてるんでしょう?』

「そうですね」
 二人で笑い合って、電話を切った。



 それから二週間は太郎と一言も話さなかった。理系と文系では教室のある階が違うから、会おうと思わなければ一度も顔を合わせないことも容易い。登校時や帰宅時にすれ違うことはあったが、太郎は私と目も合わせようとしなかった。

「宮本、あのことだけど、話してくれたか?」
 廊下で太郎の担任に訊かれ、憮然と答える。

「今は冷戦中です」
「喧嘩したのか。もしかして先生のせいか?」

「友人としてしなきゃいけないことをしただけです。この件はしばらく私に預けておいて下さい」

「まあ、どちらにせよもう夏休みだからな。頼んだぞ、宮本」
 二日後、学校は夏季長期休暇に入った。


 夏休みに入って数日が過ぎた頃、太郎が家へやってきた。

「なんの用?」
「……おふくろがお前を呼べってうるさいから」
「中に入って待ってて。着替えるから」

 部屋着のジャージとTシャツを夏らしい綿のワンピースに着替え、太郎と外へ出た。相変わらず太郎は私と目も合わさない。出ようによってはそろそろ次の手を考えなきゃいけない。そう思っていると、目の前に見覚えのある高級車が停車した。

「乗ってちょうだい」
 と、運転席から顔を見せたのはセシルさんだ。斉藤家へ連れて行かれるのだとばかり思っていた私は何が何だか分からない状態のまま、太郎に車に連れ込まれた。

「どこへ行くんですか?」
「イイとこよ。すぐに分かるわ」

 車が停車したのは郊外の洒落たレストランの前だった。普段着では少々入りにくい雰囲気の店だが、セシルさんは気にすることなく店の前で私と太郎を下ろした。

「先に入っていてちょうだい。太郎の名前で予約してあるから」
「え、セシルさん……!?」

 太郎はさっさと店の中へ入っていく。私は慌てて太郎を追いかけた。

 レストランにしては不思議な内装だった。店というよりはどこかの別荘のような。華美な豪華さはないがアンティークの落ち着いた輝きに目を奪われる。フロアにはゆったりとしたクラシックが流れ、お互いのテーブルが直接見えないよう観葉植物や衝立が工夫されていた。

 ウェイターが案内してくれたのは個室のテーブルだった。

「あれ、お皿が二人分しかない……」
 それだけではない。カトラリーも二人分、椅子も二脚。二人用の席だ。私と太郎とセシルさんでは一人分足りない。

「何ぼーっとしてんだよ。早く座れよ」
「でも」
「おふくろは来ねえよ。帰りはタクシーで送る」

 どういうことかと首を捻りつつ、私はとりあえずウェイターの引いてくれた椅子に座った。

 しばらくすると、ウェイターが料理を運んできた。前菜から始まるコースメニューらしい。細々と料理の説明をしてくれたが、半分以上は理解できなかった。まあ食べる分には問題はない。

 黙々と料理を食べ続け、メインが運ばれて来た頃になってようやく太郎が口を開いた。

「まずいな」
「え、普通に美味しいと思うけど」
 まあ正直なところ、高尚すぎる味でよく分からない。少なくともまずくはない。

「前来た時はもっと旨いと思ったんだ」
「シェフが変わったとか?」
「いや……」
 フォークとナイフを揃えて置いて、肩をすくめる。

「あんたの作るメシの方が旨い」
「……レストランの人に怒られるわよ」

 幸い部屋には私たち二人しかいなかったから、店の人に聞きとがめられることはなかったが。私は黙々と皿を片付けた。

「俺、大学に行くことにした」
「……今からじゃ、間に合わないかもよ」

「まあ、今年が無理なら来年もあるしな。モデルも辞める。今日事務所に言ってきた。引きとめられたけど、やっぱあれを一生の仕事にする気にはなれねえよ」

「そう」
 デザートが運ばれてくる。

「有子」
「なによ」

 太郎はテーブルの縁に両手を置くとがばりと頭を下げた。デザートを持ってきたウェイターがちょっと驚いている。

「悪かった。ごめんなさい。この通り、謝るから。許して」

 夏みかんのシャーベットは舌に乗せた途端さらりと溶けて、甘みの中にも微妙な苦みがあり、夏らしいさわやかな後味だけが口内に残る。

「別に、私が口うるさいのもブスなのも彼氏がいたことないのもあんたと他人なのも本当のことだしね」
「俺は有子の顔好きだぞ。美人じゃないけど、欠点だらけな所も愛嬌があるっていうか」

「フォローになってないよ。殴られたいの?」

「うるさいなんて言って悪かったよ。俺のこと心配しててくれたのにさ。男と付き合ったことがないっていうのは……ホントのことだろ」

 本当のことだけど、むかっと眉間に皺が寄る。
 けれど目の前の太郎の泣きそうな顔を見て、今までの怒りも苛立ちも胸の中ですっと消散した。

「他人だなんて言うなよ。言わないでくれ……」
「先に言ったのはあんたでしょ。あんたに関係ないって言われて。私も悲しかった」

「……ごめん」
 腕を伸ばして、太郎の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。

「いいよ、許す。こんなことで大事な友達失いたくないから」
「有子」
「ただし、ここはあんたの奢りだからね」
 太郎は最初からそのつもりだったのだろうが、なにも言わずうなずいた。

(4)身体

 私は現役で地元の大学の文学部に合格し、進学した。太郎はその年そこより幾分レベルの落ちる地方の大学に合格していたが、進学はせず浪人して同じ大学を目指すと予備校に通い始めた。

 元々太郎は頭の出来が悪いわけではない。一度説明されたこと、学んだことはそうそう忘れないし、一を聞いて五を知るくらいの賢さはある。一年みっちり勉強すればもっと上の大学も目指せるように思えたが、太郎は第一志望を変えるつもりはないようだった。

 大学へ入ったらアルバイトをするつもりでいた。コンビニで何冊か情報誌を買い、大学の掲示板もチェックしていたのだが、バイト先を見つける前に太郎に止められた。

「バイトなんて始めたら誰が俺のメシ作ってくれるんだよ」
「私はあんたの家政婦じゃありません」
「金が欲しいんだったら俺の家庭教師してくれよ。あんた国語と化学得意だろ」

 小遣いが不足しているわけではなかったし、太郎に勉強を教えるのにお金を取る気にはなれなかったから、それは断った。太郎は相変わらず予備校が終わるとウチへ入り浸っていたが、前みたいに怠惰に時間を過ごすことはなく私がレポートを書く横で真面目に受験勉強に勤しんだ。

 太郎は早い段階から模試でA判定を出していた。それが悪かったのか、油断から悪い虫が騒ぎ出し、夏が過ぎる頃、夜に遊び歩くようになった。予備校にはあまり真面目でない彼女もいるらしい。いくらA判定を取っていてもここで気を緩めたのでは今までの努力が無駄になる。セシルさんと相談して、私が太郎と話すことになった。

「太郎、そこに座って」
「なんだよ」
「正座」
「…………」
 話の内容を悟ったのか、太郎は神妙な面持ちで私の前に正座する。

「私がなにを言いたいのか、分かってる?」
 太郎は唇をとがらせて言った。

「いいじゃん、ちょっと遊ぶくらい。ストレス発散した方が集中できるし」
「ここのところ毎夜のことじゃない。あんた受験生なのよ」
「勉強はちゃんとしてるだろ! ちゃんと模試もA判定だし」

「模試は本番の試験とは違うのよ。模試でA判定取ったからって大学に合格できるわけじゃない。それにね、よく見なさい。判定は変わってなくても、前より順位も偏差値も落ちてるじゃない」

「別に入試に合格できれば何番だって関係ないだろ。受験が終われば結局忘れるんだから。国語やら化学やら受験に必要な勉強なんて実生活じゃ何の役にも立たないんだし」

 ため息が出る。

「知識は無駄にはならなし、実生活で役に立つことだってある。特に理系なら、大学で勉強していくのに基礎的な知識が必要になってくる。今の時期にそういう甘い考えでいちゃ、受験は乗り切れないし、合格できても後で苦労するよ。
 やっぱりあんたにはウチの大学じゃあダメみたいね」

「なんだよそれ! 俺の志望校は俺が決める! そこまであんたに口出しされる筋合いはねえよ!」

「結果としてウチの大学に入るのは自由よ。でも模試の志望校にはもっとレベルの高いA大やS大も書いておいた方が、あんたの緊張感を保つにはいいわ」

 太郎はぐちぐち文句を抜かしていたが、私ははっきりと言い切った。

「これ以上ふざけたこと言うなら、出禁にするからね。もう一年浪人したいの?」


 私の言葉が効いたのか、太郎は夜遊びをやめ、不真面目な恋人とも別れた。あれで神経質なところがあるから、判定の欄にA以外の文字があるのが気に入らないらしく、近頃では真面目に勉強している。私の作戦勝ちだ。

 ところがセンターを目前にして、太郎は目に見えて苛立ち始めた。不機嫌ですぐに怒るし、勉強の集中力も続かない。受験のストレスのせいだということは分かっていたから、少々のことなら私が譲って許してやったが、時々殴り合いの喧嘩にまで発展することもあった。

 十二月、太郎はセンター直前のプレテストでひどく成績を落とした。

「そういえば最近女とヤってねえな」
「男とはヤってんの? あんたそういう趣味が」
「なに言ってんの? あーどっかで適当にナンパでもしてこようかなあ」

 軽口をたたいてはいるが、太郎は思った以上に今回の模試の結果を気にしているらしい。無理もない、最近の太郎は寝る間も惜しんで頑張っていた。目に見えて気落ちしている太郎に、私は何も言うことが出来なかった。

「なんで何も言わねえの? こんな時期に夜遊びなんて、馬鹿みてえじゃん」
「あんたが自分で分かってるのに私が言うことなんてないでしょ」
「ヤりたいのはホントだよ。最近ろくに抜いてねえし」
「じゃあ今日はもう帰って自分の部屋で好きなだけ抜いてきなさいよ」

 素っ気なく言ってレポート課題の本に目を落とした私を、隣で太郎がじっと見つめている。変な視線。居心地が悪くて、私は太郎に背中を向けた。

「有子さ」
「うん?」
「まだ処女なの?」
 答える義務はない。無視した。

「だよなあ、だって男いたことねえし。いっつもジャージだし」
 それは家の中でのことだ。外に出る時はちゃんと着替えるし、最近は化粧もするようになった。

「平気であぐらかくし、髪はぼさぼさだし、大口開けてあくびするし」
 いまさら太郎の前で取り繕うことなんてない。一体こいつは何が言いたいんだ。

「そんなんじゃあ一生男なんてできねえよな」
「余計なお世話」

 肩越しに近くにあったクッションを投げつける。ちゃんと見て投げなかったから、多分当たらなかっただろう。

 ページをめくろうとした私の首に、するりと暖かいものが巻き付いた。

「俺が抱いてやるよ」
 ぬるりと耳に濡れた感触。気付いたら押し倒されていた。



 思えば私は恋というものをしたことがない。なんとなくそれは、例えば魔法や超能力のように、別世界に存在するモノのように思える。だから恋人を作りたいと思ったこともなかった。

 反面、年相応に性に対する興味はあった。理想と言ってもいいかもしれない。恋愛小説のヒロインたちは、ほんの一つのキスでとろけるほどの幸せを感じることが出来るのだ。


 初体験としては最悪だった。フローリングで背中は痛いし、寒いし、下着は使い古しだし、むだ毛の処理も適当だった。突っ込まれ処女膜を破られた瞬間の痛みは思っていたほど酷くはなく、ただ想像以上に血が出て処理に大変だった。最中の記憶より掃除の記憶の方が鮮明に残っている。

 私は抵抗らしい抵抗はしなかった。だからそれは合意の上の性交だったのだろう。


 私の中で、太郎はコンドーム越しに一度だけ射精した。私は痛みしか感じられなかったが、下から見上げる太郎の顔は、情欲にまみれ、思わず見とれてしまうほど綺麗だった。

 絡まった指先でそっと太郎の指の間を撫でると、びくっと私の中で太郎のそれが大きくなる。面白くなって、覆い被さってきた太郎の首や耳を届く範囲で舐めてみると、その度に太郎の身体がびくびくと震えた。

「あっん、た、は……!」

 太郎は怒ったように私を睨み、動きを激しくした。股の間で何かが出入りしている感触はある。けれどその感触は、膜一枚隔てた向こう側の出来事のように遠く感じられた。

(5)恋と愛

 恋と愛の違いというのはよく分からない。ただ私は太郎を愛しているが、恋しているかと言われればそれは違うと断言できた。


「あなたが宮本有子さん?」
 学食でうどんをすすっていると、向かいにカレーのプレートを持った男が座った。垢抜けた感じの優しい顔立ち。

「どちら様ですか」
「工学部一年の瀬能吹雪。斉藤太郎の友達」

 太郎は無事私と同じ大学に合格した。工学部でキャンパスは同じだが校舎は離れている。工学部には専用の学食があるから、文系棟に近いこの学食で太郎とすれ違うことはない。

 太郎は大学へ入るとすぐにたくさんの友達を作った。というより、黙っていても勝手に人が寄ってくるのがあいつだ。幼さの抜けた太郎は新入生の中でも一際目を引く存在で、過去にモデルをしていたこともあって夏が過ぎる頃には大学内で知らない者がいないほどの有名人と化していた。

 瀬能吹雪という名は聞いたことがある。最近太郎の話の中によく登場する人物だ。履修科目が重なることが多く、話の話題や音楽の趣味が合うのだという。昼食も共にすることが多いと聞いていたが、今日の瀬能の近くに太郎の姿は見えなかった。

「何かご用ですか」
「ちょっと興味を引かれてね」
「はあ」
「中学の頃から彼女面して斉藤に付きまとってるって聞いたけど?」

 思いもよらない発言だった。

「あいつがそう言ったんですか?」
「斉藤? 違うよ。斉藤のクラスメートだったって奴らから聞いた。ここ彼の地元なんでしょ? 知り合い多いよね」

 なるほど、私は昔から太郎の周りに集まる人からは嫌われることが多かった。彼らの中ではそういう風に認識されていたのか。

「斉藤に聞いても不機嫌になって黙り込んじゃうし。いい加減付きまとうのやめてあげなよ。君と彼じゃあどうやったって釣り合わないだろ。ストーカーって立派な犯罪だよ?」

「斉藤は友達です。あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」
 瀬能はむっと眉を寄せてプレートをひっくり返した。

「お前みたいな女に付きまとわれて斉藤は迷惑してるんだよ!」

 言い捨てて出て行く。昼時の学食は学生であふれかえっていたが、瀬能の大声に周囲が一瞬静まり返ってこちらを見ていた。

「……はあ」

 べっとりとカレーに汚れたシャツとジーンズ。床に散った福神漬けを片付けるのは私の仕事なのだろうか。


 午後の講義には出ずに家へ帰った。広範囲に付着したカレーの染みはどうやっても隠せるものではなく、帰りの電車では恥をかかされた。

 Tシャツとジャージに着替えて着ていた服を染み抜きし、レポート作成のためにパソコンを立ち上げていると携帯電話が鳴る。太郎からだった。

「なに?」
『機嫌悪いの?』

 声で察したのだろう。中々立ち上がらないパソコンにイライラしながら机の端を指で叩いた。

「何かご用ですか?」
『今どこ?』
「家」
『水曜の午後一は講義じゃなかったっけ?』
「休講だったの」
『ふうん。今から行っていい?』
「あんた今どこにいるの」
『有子んちの前』
 ピンポーンと鳴って太郎は勝手に入ってきた。

「俺も今日休講だったんだ。昼メシ食った?」
「食べた」
「じゃあいっか」

 何がいいのか太郎は麻のジャケットを脱ぐと私の首筋に顔を埋めてきた。十月になってもまだ暑い。首には汗をかいていた。

「ちょっと」
「この後はずっと家にいるんだろ?」

 Tシャツの裾をめくられて、色気のないブラジャーの間に顔を埋められる。初めての時以来、太郎は週に何度か私と性欲処理をするようになった。

 何度やっても私が性交で肉体的快感を得ることはなかったが、行為自体は気に入っている。太郎を乱すのは楽しい。誘いに応じて机の上のノートパソコンを閉じようと手を伸ばすと、胸の間で太郎が息を吸った。

「カレーのにおいがする」
「ああ。こぼしたから」
「昼カレーだったの?」
「うどんだったよ」
「……カレーうどんだったの?」
 私は笑って答えなかった。

 シャツを脱がせ、ブラジャーを押し上げながら太郎は今日あったことを話した。一限は教授が十分も遅刻してきた。誰それに代返を頼まれた。何とかという教授は話が眠くなる。授業中ずっと前の席のカップルが手を繋いでいた。

「昼に学食に行こうとしたら瀬能がいなくてさ。二限は隣にいたのに、どこ行ったんだか」

 私も太郎のシャツを脱がせる。ジーンズのボタンを外し、ジッパーを下ろしてボクサーパンツの中から性器を出して手で扱いた。

「んっ……そういえば写真もらった……あっ」
「写真?」
「そ……っ、夏や、すみ、の……ああっ」
 すぐに固くなり、先走りで手が濡れる。

「ああ、旅行の時の? あの時の彼女とは別れてなかったっけ」
「んんっ、有子、もっと強く……」

 ダメだもう話せる状態じゃない。私の手は汚れてるから太郎にコンドームを付けさせて、その間にローションで下を馴らした。

 寝転んだ太郎の上へまたがる。その日も太郎はよく喘いだ。



  ***



 太郎と外で会うことはほとんどない。私が意識して避けているせいもあるが、いつ頃からか太郎も外では私と目も合わさないようになっていた。


 その日、大学で見かけた太郎はめずらしく一人だった。図書館の書架の間。古典文学の一画に太郎がいるのはおかしい。

「有子」
 外では目も合わせようとしない太郎だが、人目がなければ寄ってくる。

「なにしてんの?」
 訊ねると、太郎は肩をすくめた。

「レポートの資料探し」
 そういえば太郎は一般教養で古典文学の講義をとっていた。課題の内容を聞いて、適当に本を選んでやる。

「これはよくまとまってるけど、ちょっと分かりにくいところがあるから、こっちを先に読んで。初心者向けはこれ。一般教養程度ならこの辺で十分」

「サンキュー助かった。久しぶりに外でメシ食わねえ?」

 思えば太郎と外食をしたのは高校三年生の時以来だ。慣れないことをするものではない、と後悔したのは小洒落たイタリアンレストランで太郎のガールフレンドの一人と遭遇してしまってからだった。

「あれえ? 斉藤くん?」
「生田。一人なの?」
「友達と一緒だよお。ほらあそこに」

 くるくると毛先を巻いたロングヘヤーの女の子は、花の付いたピンクのネイルで少し離れた席を指さした。数人の女の子たちがランチプレートをつつきながらお喋りに興じている。

 生田と呼ばれたその子は、太郎から視線を移して値踏みするように私を見た。一応、普段大学に行く時はまともな格好をするようにしているのだが、その日は寝坊してTシャツにジーンズ、上に太郎が忘れていったシャツを羽織り、足下はスニーカーで化粧もしていなかった。

「コチラもしかして新しい彼女?」

 そんなわけないよね、という言葉が言外に聞こえてきそうな口調で生田は太郎に訊ねる。太郎は紹介する気はないようで、ただ短く「友達だよ」と答えた。

「なあんか、どっかで見たことある気がする」
「同じ大学なんだから、すれ違うことくらいあるだろ」
「そういうんじゃなくてえ」
 んー、と綺麗なオレンジ系のルージュに彩られた可愛い唇をとがらせて、生田はぱっと手を叩いた。

「そうだ。この間中央の食堂で瀬能くんといた子でしょー。彼にカレーぶつけられてた」

「……は?」
 太郎は「本当か?」という視線で私を見た。

「そんなこともあったかな」
「ええ? アレ酷かったよねえ。胸から膝までカレーでべっとり。斉藤くんの友達だったんだあ」

 生田は太郎を同じ席に招きたがったが、太郎は素気なく断って壁際の二人席へ座った。ランチセットを頼んで料理が運ばれて来ても、太郎はむっつりと黙り込んで不機嫌そうだった。

 太郎の態度のせいであまり美味しくないパスタを食べ、セットのデザートのジェラートをつつく頃になって太郎は口を開いた。

「あの時?」
「え?」

「瀬能と会ったの。午後一の授業が休講だって言ってたあの日? あんたからカレーのにおいがした」

「ああ、そうね」
「休講だったってのはウソ?」
「うん」
「瀬能と知り合いだったの?」
「初めて会ったよ」

 太郎は甘い物も嫌いではないのに、目の前のジェラートは手を付けられることなく溶けかけていた。綺麗な紫色のブドウのジェラート。冷房の効いたレストランでは少し寒い。

「カレーぶっかけられたって?」
「うん」
「なんで?」
 太郎を見る。ぶすっとした顔は相変わらずだが、目が怒っている。

「あいつは普段そんなことする奴じゃねえ」
「ちょっとした行き違いがあって」
「行き違いって?」
 微笑む。

「私と彼の問題だから」


 別々に会計を済ませ、店を出て太郎と別れた。夜、ウチへやってきた太郎は私を抱きしめながら、「瀬能を殴った」と一言だけ告げた。



 二度目に瀬能と会ったのはやはり学食でのことだった。

「宮本さん」
「……こんにちは」

 午後一の授業がなかったから、昼時を少し外して来たので、食堂の席は半分も埋まっていない。空席は他にもあるのに瀬能は当然のように四人がけのテーブルの私の前へ腰を下ろした。

 プレートの上にはカレーうどん。カレーが好きなんだろうか。しかし半固形のカレーライスとは違って液体のカレーうどんは、ぶっかけられると後始末が大変そうだ。

 瀬能は一口うどんをすすって顔をしかめた。口の横に紫色の痣がある。口の中も切っているのだろう。

「失敗したな。斉藤に殴られたところにしみる」
「なにかご用ですか」

「ええ、謝罪に来ました。先日は色々すみませんでした。あなたのことを誤解していて」

「なれてますから」
 瀬能はまた顔をしかめる。

「なれてるって、よくあるんですか。あんなことが」
「カレーは初めてでしたけど」
 しゅんとうつむく。

「汚した服は弁償します」
 カレーの付いた服は染み抜きしても色が抜けなかったので捨てた。

「どうせ安物ですから」
「弁償します」
 瀬能は少し強くそう言ったが、私は笑って誤魔化した。

「……斉藤は知ってるんですか、あなたがそんな目にあってるって」
「知ってることも知らないこともあります」

「俺のことも、あなたが告げ口したわけじゃないそうですね。なんで何も言わないんですか」
 私は首をかしげる。

「あいつは綺麗でしょう?」
「ええ。学科の数少ない女子はみんな彼に夢中ですよ」
「綺麗なものを愛でるにはそれなりの代償が必要だと思いませんか」
 瀬能は困ったように眉を下げる。

「だから何も言わず我慢してるんですか」
 おかしくて、声を出して笑った。

「売られた喧嘩ならちゃんと相手をしますよ。私、そんなお人好しでもか弱い子でもありません」

「でも俺の時は……」
 あ、と瀬能は私を見た。

「俺が斉藤のためにしたことだから、許してくれたんですか」
 私は何も言わず席を立った。



 後日、太郎が瀬能から荷物を預かってきた。開けると私じゃ手の届かないようなブランドのカットソーとジーンズが入っていた。

「こんな高いモノもらえない」
 だって汚された上下を合わせても被害額はカットソー一枚分にも及ばない。

「慰謝料だと思って受け取っとけよ。あいつ株で儲けてるから、そのくらいの物じゃ懐も痛まねえよ」

 不機嫌そうにそう言うと、太郎は私が眺めていた服を床へ追いやり、さっさと胸へ手を伸ばしてきた。普段なら好きなようにさせるところだが、追い払う。

「なんだよ生理中? 先々週終わったはずじゃん」
「太郎とはもう寝ない」
「はあ?」
 唐突な宣言に、太郎はわけのわかっていない顔で私を見る。

「あんたがする分には双方了解の上だから止めないけど、やっぱ一般的に友達でも他の男と寝るのはマズイと思うのよ」

「何のことだよ」
「浮気とか二股とか」
 太郎の場合は二股じゃ済まないが。

「わけわかんねえ。今更じゃね?」
「あんたはね。でも普通の人はそう思わないでしょ」
 告げる。

「私、彼氏ができたのよ」


 恋人と友達。どちらが大切かと訊かれたら、人によると答えるしかない。たまに遊ぶ友達だったら恋人の方が大切。でも太郎と恋人なら断然太郎の方が大切だ。

 だから恋人が出来たからといって太郎と友達であることをやめるつもりはない。ウチへ来ることも止めない。ただセックスは別だ。堅いことを言うつもりはないが、恋人が出来たなら他の人との性的接触は避けるのが一般的なマナーだと思う。相手に不愉快な思いをさせないというのは円滑な人間関係を築く上での当然の常識だ。


「彼氏? あんたに?」
「うん。同じゼミの先輩なんだけど、昨日から付き合ってるの」
「へえ……物好きもいたもんだな」

 私もそう思う。

 告白してきたのは向こうからだ。四年生の御堂亮介は物静かな印象の小柄な男性で、何度か一緒に教授の手伝いをしたことがある。と言っても二人きりなどではなく他のゼミ生もいたのだが、ゼミの終わった二人きりの教室で、何をとち狂ったのか私を好きだと言った。

 冗談かと思ったが冗談でそういうことを言う人ではない。彼に恋愛感情はなかったので一度は断ったのだが、普段の印象からは想像もつかないほどの押しに負けて試しに一月付き合ってみることにした。恋は私にとって別世界の生き物だが、彼氏という存在がいる状態には若干の興味があった。

「その男ともう寝たの?」
「え? まだ付き合って一日よ」
「別に付き合ったその日にやるくらい普通じゃねえ?」
「そういうことに関するあんたの常識は世間一般とは大幅にずれてるってこと、自覚した方がいいよ」

 太郎は肩をすくめると大人しく引き下がって、少し離れた場所で雑誌を読み始めた。その内腹減ったあ、とわめきだしたので、私は台所に立った。



 御堂とは何度かデートを繰り返し、二週間ほどしてホテルに行った。ラブホテルには一度太郎と来たことがある。何かのドラマで出てきたのを、見てみたいとつぶやいたら、連れてきて色々説明してくれた。

 御堂は思ったより女慣れした男だった。デートでもベッドの上でもそつがない。セックスも上手い方なのだろうが、相変わらず私の身体は感じないし濡れなかった。

 濡れないのはしょうがないとして、一応マナーとして喘ぎ声はあげてみた。手本は太郎だ。御堂は多分騙されてくれたと思う。

 試用期間も残すところあと一週間となった頃、少し早めに行ったゼミ室で御堂が同じ四年生の先輩たちと話していた。

「あと一週間か」
「ちぇ、宮本お堅そうに見えたのに結構簡単に落ちたよなあ。あーあ、五千円損した」

「まだ一週間あるだろ。勝負は最後までわかんないって」
 先輩の一人がにやにやと笑いながら御堂に訊ねる。

「なあ宮本って処女だった?」
「処女じゃなかったよ。俺も初物だと思って期待してたのになあ」
「お前好きだもんな、そういうの。あ、宮本選んだのも処女っぽかったからだろ。で、具合いいの?」

「まあ普通。結構感じやすいみたいであんあん啼くの。喘ぎ声は俺の好みなんだよなあ。賭が終わってもしばらく付き合ってもいいかも」

「マジかよ。お前の彼女でああいう地味なのってめずらしくね?」
「たまにはいいだろ。箸休めってやつだよ」
 私はドアを離れ、自販機の前で時間を潰してから時間ぎりぎりに教室へ戻った。



「考え事ですか」

 図書館のソファでぼーっとしているところに声をかけてきたのは瀬能だった。相変わらず感心するくらいオシャレな格好をしている。

「こんにちは。何かご用ですか」
 そう訊くと、瀬能はふき出した。

「宮本さんって一言目はいつもそれですね。隣、いいですか?」
 そういえば服のお礼を言っていないことを思いだして、うなずいた。

「どうぞ」

 瀬能は自然と目立つ男だ。通りかかる女性はみんなちらちらと彼を見ていく。顔も整っているし背も高い。むろん太郎と比べると劣るが、あれと一般人の男性を比べてはいけない。あれはほとんど人外なのだ。

「服、ありがとうございました」
「え? ああ、いえ。女性物はよく分からなくて、店員に頼んだんですけど、気に入っていただけましたか?」

「高級すぎて着ていく場所がありません」
 正直まだ一度も袖を通していない。
 そう言うと瀬能はまた笑った。

「なら今度食事でも行きませんか」
 社交辞令だろうが礼儀として断っておいた。

「今、お付き合いしている人がいるので」
 御堂の顔が思い浮かんで眉が寄った。瀬能は驚いた顔で私を見る。

「斉藤と付き合ってるんですか?」
「まさか。あいつは友達ですよ。ゼミの先輩です」
「斉藤のことが好きなんでしょう?」
「好きですよ」
 大切な友人だ。

「斉藤を忘れるためにその先輩と付き合ってるんですか?」
「忘れる? どうして?」

「あなたは二人の男を一度に好きになれる人のようには見えないから」
 肩をすくめる。

「あいつと恋愛をするつもりはありません」
 瀬能は目の前の自販機でコーヒーを二本買って一本を差し出した。

「どうぞ」
 財布を出そうとするとスマートに止められる。まあここはお言葉に甘えよう。

「ご用件は?」
「なにか用事がないと声をかけちゃいけませんか」
「そういう親しい関係ではないので」

「ため息をついてましたね」
「え?」
「さっき、俺が声をかける前に」
 そうだっただろうか。無意識に出たものだろう、記憶にない。

「彼氏と何かあったんですか」
「どうしてですか」

「お付き合いしている人がいる、と言った時眉間にしわが寄っていましたよ。彼氏の話をする顔ではないですね」

「ええ。ちょっと先日賭けの対象にされていたことを知ったもので」
 瀬能は眉を寄せた。

「賭け?」
「落ちるとか落ちないとか、一ヶ月付き合ってられるかどうかとか、そんな感じでしょうね」

「それは……どうしてすぐに別れないんですか?」
「売られた喧嘩は買うのが私の主義です。ところで瀬能さん、この後お暇ですか」

「え? 授業はもう終わりましたけど」
「今、彼女いますか?」
「……ああ。そういうことですか。丁度先日別れたばかりです。でもそれなら斉藤の方が適任では」

「あいつじゃ目立ちすぎます。それに話す前に手が出る」
「……なるほど」
 今はもう消えた痣を撫でる。

「ご協力願えますか」
「今度食事に付き合っていただけるのでしたら、いいですよ」

「奢ります」

 瀬能がゼミの前によく友人たちと教室でお喋りしていることは知っていた。折しも今日はゼミのある日で、瀬能が話に乗ってくれたのは幸運だった。

 教室の前で、瀬能が私の腰に手を回し身体を密着させてくる。
 斜め上にある瀬能の顔を見上げると、にっこりと笑われた。

「この方が仲良さそうに見えるでしょう?」
 ドアを開けると先日と同じメンバーがそろっていた。御堂もいる。入ってきた私と瀬能を見て驚いている。

「御堂さん。約束の一ヶ月より少し早いですが、これ以上はあなたとお付き合いできません」

「……その隣の男が好きなの?」

「そうですね、御堂さんよりかっこいいし、背も高いし、セックスも上手いし。すいません、ずっと騙してて。御堂さんとセックスしても気持ちよくないんです。頑張って演技してましたけど」

「な……っ」
「今日のゼミは欠席します。教授にはメールしておきましたので。失礼します」

 そのまま出て行こうとした私を、瀬能が止める。

「有子」
 斜め上の頭が下りてきて、唇が重なった。



 私はそのままゼミをさぼって近くのカフェに入った。瀬能も一緒だ。私はブレンドを頼み、瀬能はキャラメルなんとかという甘そうな飲み物を注文した。

「やりすぎだったかな」
「そうですね、舌を入れるのはちょっと」
「でも宮本さんキス上手いですね。こう言うと失礼かもしれませんが、意外です」

「はあ、どうも」

 太郎と御堂くらいしか相手がいなかったから、上手いかどうか自分ではよく分からない。御堂はあまりキスをしたがらなかったし、太郎は全身性感帯だ。

「この際ですから、本当に俺と付き合ってみませんか?」
「は?」
「本当の彼氏にして下さい」
 綺麗な微笑でそう言う瀬能を、私はまじまじと見つめた。

「彼氏がいいんですか?」
「え?」
「私は友達になりたいんですが」
 瀬能は残念そうに言う。

「彼氏としては不合格ですか」

「私たち共通の友人がいるというだけの間柄ですから、彼氏だと別れたらそれで関係が切れてしまうでしょう。瀬能さんとはもっと長く付き合いたいです。それに私はあまり恋人向きの女じゃないと思います」

 そう言うと、瀬能は頬を赤くしてキャラメルなんたらを飲んだ。

「恋人になるのに向き不向きは関係ないと思いますけど。でも、友達でもいいかな。斉藤を見てると彼氏より大事にしてもらえそうだ」



 数日後、太郎がウチへやってきて、一息つく暇もなく私のシャツを脱がせた。

「ちょっと」
「瀬能に聞いた。彼氏と切れたんだろ? ならいいじゃん」

 拒む理由もなかったので、そのままベッドになだれ込んだ。久しぶりの太郎はひどくしつこくて、三時間ぶっ通しでやり続けた。

 股の間がひりひりする。

「やっぱあんたとするのが一番気持ちいいよなあ」
「まあ、ただ感じてればいいからね」

 彼女とする時にはそうはいかないだろう。ちゃんと感じさせて自分で動かなければならない。

「そういえば、あんたいつの間に瀬能と仲良くなったんだよ」
「この前ちょっとお世話になってね」

 あの後瀬能とはメールアドレスを交換して別れた。約束の食事はまだ予定が立っていない。

「瀬能さんって何が好き?」
「はあ?」
「食べ物。和洋中どれ」
 太郎は変な顔をする。

「なんでそんなこと知りたがるんだよ」
「今度食事に行くから」
「はあ!? まさか次は瀬能と付き合う気かよ!?」
「それは断っておいた」

「ってことは告られたのか。あの野郎……。有子、あいつはやめておけよ。女をとっかえひっかえしてるような奴だからな」

「瀬能さんもあんたにだけは言われたくないでしょうよ」



 月末、瀬能とちょっといいレストランに中華料理を食べに行った。なぜか太郎も付いてきた。綺麗な男二人を両側に並べまさに両手に花。周囲の視線が痛かった。

 お礼だから、会計は私持ちだ。瀬能は払いたがったがそこは譲らなかった。むろん後で太郎の分は徴収しておいた。

(6)女友達

 一足先に大学を卒業した私はとある中小企業の事務に就職した。実家のアパートからは少し離れているから、一人暮らしだ。家賃は一部会社負担。翌年、太郎はソフトウェア開発をしている外資系の会社に、瀬能は証券会社に就職した。

 瀬能とはなんだかんだで交友が続いていた。私が太郎と寝ていると知った奴に誘われ、興味本位で一度だけホテルに行ったこともある。太郎の時のように胸やわきを撫でてやると、太郎ほどではないがよく喘いだ。

 雑誌や小説には書かれていなかったが、男というのは感じやすく出来ているのだろうか。以後瀬能が私をホテルに誘うことはなかった。

 就職してしばらく経ったころ、テレビで知っている顔を見るようになった。高山彩子。中学の時太郎と付き合っていた彼女だ。高校は別々だったが、美少女の評判はウチの学校まで届いていた。有名私立大学に進学したとは聞いていたが、美少女は成長して美女になり、テレビ局に就職したらしい。

「高山さんアナウンサーになったのね」
 一人暮らしを始めてからも私の部屋に入り浸る太郎にそう言うと、太郎は不思議そうな顔をして首をかしげた。

「高山? 誰?」
「高山彩子。元カノでしょうが。中学の時の」

 そんな奴いたっけなあ、なんて頭をかいている。なんて薄情な男だ。

 太郎はウチの近くに住んでいる。太郎の会社なら実家から通えない距離ではないし、ウチからだとむしろ少し遠くなるのに。親元を離れてからは夕食を食べてそのまま私の部屋に泊まることも多くなり、半分同居しているようなものだった。

「それよりさあ、俺明後日から出張なんだよ。大阪に一週間」
「そう」
「先輩と一緒だからナンパもできねえし。関西弁の女は苦手だし」

「外国人女性に母国語で喋ってもらったら」
「いいから早くベッド行こうぜ。今日は一週間分な」
「じゃあお風呂入ってくるからその間に食器洗っといて」
 家事は分担。太郎は素直に従った。



 それから数日後、思いもよらず私は高山彩子と再会した。瀬能と偶然行ったレストランで、彼女は丁度取材の最中だった。

「あれ、高山彩子だ」
「え?」

 瀬能が後ろを指さすので振り返ると、中学の時の面影を残した美女が桜色のワンピースを着て立っていた。胸にマイクを付けている。店長らしい男性が近くに座っていた。

「取材かな。ここ結構有名な店だから」

 見ていたのは一瞬だったが、高山彩子と目があった気がした。多分向こうは私のことなど覚えていないだろう。食事を続ける。

「そういえば今度友達が、有子の会社の子と合コンするって」
「へえ。秘書課の女の子たちかな」
「俺も誘われてるんだけど、有子は行く?」
「なんで」

「有子が行くなら行こうと思って」
「行くわけないでしょ。誘われてないし」
「なんだ。……あれ?」
 皿から視線を上げると瀬能が怪訝そうな表情で私の背後を見ていた。

「なんか……こっちに来てる?」
「なにが」
「高山彩子」
 振り返ると目の前に高山彩子が立っていた。

「あなた、宮本有子でしょ」
「こんにちは。お久しぶり」
「地味な顔に地味な格好。ブスは成長しても変わらないわね」

 相変わらずツンケンしているが、彼女ほどの美女だと腹も立たない。
 高山は一緒にいた瀬能に視線を移し、無遠慮にじろじろと眺めた。

「あなたが連れてるにしてはいい男ね。彼氏?」
「友達」
「でしょうね」

 瀬能は高山の態度に腹を立てているようだった。冷たい表情で高山を睨んでいる。

「高山さーん! 次行きますよ!」
 もう撤収なのだろう。機材を片付け終わったスタッフが高山に声をかける。

「すぐに行きます!」
 高山はイライラと返事を返して、テーブルに何か置いた。

「私の名刺。今日は五時には上がるから、絶対連絡してくるのよ」
「は?」
「返事はハイでしょ」
「どうして?」
 高山と私は中学の同級生ということ以外何の関係もなかったはずだが。

「いいからハイって言いなさい! 私急いでるのよ!」
「え、あ、ハイ」
 高山は満足そうにうなずいて店を出て行った。

「知り合い……だったの?」
 瀬能が訊ねてくる。

「同じ中学。で、太郎の元カノ」
 可哀想にその存在はすっかり忘れ去られていたが。

「さすが斉藤。高山彩子っていえば今年の新人女子アナで人気ナンバーワンの実力派だよ」

「中学の時の話よ。……ああ、そうか」
「なに?」
「名刺。太郎に用事なのかも」
 瀬能は首をかしげる。

「よりを戻したいって感じじゃなかったけどね」
 その後瀬能と映画を見て別れた。



 家に帰って夕食の準備をしていると、太郎からメールが届いた。なんてことはない、大阪で食べたらしいたこ焼きの写メが添付されている。

 時間表示を見るともう六時だった。

「あ、高山彩子」
 連絡しろとすごまれていたのを忘れていた。無理矢理だが約束した手前すっぽかすのも後味が悪い。

 コートのポケットから名刺を探し出し、携帯の電話番号にかけてみた。

『はい高山です』
 ちょっと苛ついたような声で高山が出る。

「あの、宮本だけど」
『宮本有子! 五時って言ったでしょ、遅いわよ!』
「スイマセン」
 別に謝る義理はないのだが。

『今どこよ? 駅の近く?』
「家」

『家ぇ!? 何で帰ってるのよ! ……まあいいわ。あなたの家、太郎くんちの近くだったわね』
「いや、今は一人暮らししてるから」

『住所は?』
「は?」
『今から行くから住所教えなさいって言ってるのよ!』

 迫力に負けて私はアパートの住所を告げた。さすがアナウンサー、声の通りがいい。

 二十分ほどして、高山がやってきた。調理具を洗った手をTシャツで適当に拭きながら、玄関を開ける。

「いらっしゃ……」
「用意して」
「は?」
「外に出るから早く。車路駐してるのよ。ジーンズはダメよ、ちゃんとした格好でね」

「いやでもこれから夕飯……」
「早くしてっ!」

 仕方なく鍋の火を止め、出勤用のスーツに着替えた。煮物だから明日食べても大丈夫だ。

 着替えて出てきた私を見て、高山は顔をしかめる。

「なんでそんな地味なスーツなのよ。……まあいいわ。予約は七時なの、早く行きましょ」

「予約?」

 高山はさっさと家を出て行ってしまったので、慌てて鞄を掴み玄関に鍵をかけて追いかけた。アパートの前に停車してあった車に乗り込む。意外にも、丸っこい優しいフォルムをした車だった。

「どこへ行くの?」
「ご飯食べに行くに決まってるでしょ。今何時だと思ってるの?」

 当然のようにそう言う。もうなんか色々諦めて、ため息をついて置いてあった雑誌に手を伸ばした。

「あっ、それ……」
「え、見ちゃいけなかった?」
「……別に、いいけど」

 有名な女性雑誌だ。十一月号はクリスマス特集と称して人気のあるレストランやホテルの情報が載っている。所々に附箋がしてあって、きっと高山が恋人と行きたい場所にチェックを入れているのだろうと思う。

 ふと視線を感じて顔を上げると、信号待ちで停車中の高山がじっとこちらを見つめていた。高山の方が背が低い上、私は座高が高いので、自然と高山は上目遣いになる。大きくて綺麗な形の目。濃いまつげに囲まれ、黒目がちで、少し釣り気味なところが気位の高い高山をよく表している。高山は大人になっても高貴な猫みたいだ。

 信号が変わって高山は車を発進させた。私も雑誌に目を戻す。レストランに着くまで、私たちの間に会話はなかった。


 車を地下の駐車場へ停め、エレベータで最上階まで上がる。連れてこられたのは真新しい高層ビルに入っている落ち着いた内装のレストランだった。ウェイターに案内されて、窓の側の席に腰を下ろす。ディナーコースは二種類で、私たちは品数の少ない方を注文した。メインは私は肉を、高山は魚を。車で来ているからワインは開けない。

「いい感じのお店ね」
「局の先輩に教えてもらったの。簡単に予約の取れる店じゃないのよ」

 その分値段も張る。今日は財布にいくら入っていただろうか。いざとなればカードもあるが、予想外の出費に頭が痛む。

 前菜が運ばれて来てカトラリーを手に取った。
 タマネギのタルト、温野菜のサラダ、ジャガイモのポタージュ。

「美味しい」
「まあまあね」
 そう言いつつ高山の表情も悪くない。
 水を一口飲んで、早速本題に入った。

「太郎なら来週には帰ってくるけど」
「は? なんで太郎くん?」
「太郎に用事があって呼んだんじゃなかったの?」

「彼とは中学校の時に終わってるわよ。それに何か用事があるならあなたに頼まず直接行くわ」
 高山は不機嫌そうに言う。

「じゃあ、なんの用だったの?」
「そ、それは……あ、そうよ。ハンカチ」
「ハンカチ?」

「借りたまま返してなかったから。今度新しいのを買って返すわ……だから、あの時のはもらってもかまわないでしょ!」

 思い出す。確かに高山がまだ太郎と付き合っていた時、ハンカチを貸したことがあった。しかし……何年前の話だ。

「あの時のハンカチ、まだ持ってたの?」
「も……っ、持ってるわけないでしょ! とっくに捨てたわよ! 捨てたから返せないって言ってるの!」

「そう。別にハンカチ一枚くらい、気にしなくていいよ。わざわざ買ってまで返さなくても、中学の時の話だし」

「返すわよ! そんなことで借りを作っちゃたまらないわ!」
 借りなんて。十年以上前のハンカチ一枚でそんな厚かましい考えを持つ気はない。

「……あなた、まだ太郎くんと付き合いがあるのね」
「まあ、中、高、大と同じだったし」

「太郎くんと付き合ってるの? 今日の昼に一緒にいた人は友達だって言ってたけど、あなたレベルの人がまさか二股?」

「二人とも友達だし、あの人は太郎の関係で知り合ったの」
 ふん、と高山は鼻を鳴らす。

「でしょうね。どうせ今も彼氏なんていないんでしょ。週末の休みも家事くらいしかすることないんじゃない? どうしてもって言うなら、この私が暇な時には遊んであげてもいいわよ」

「え、でも。高山さんも仕事が忙しいだろうから、別に……」
「わ、私が遊んであげるって言ってるんだから、あなたは素直にうなずいてればいいのよ!」

「はあ」
 無理矢理メールアドレスを交換させられ、名刺を取り上げられた。
 旨い食事を堪能し、会計を済ませて店を出る。なぜか高山に奢られてしまった。

「入社したばっかりの薄給OLに払わせるほど私は落ちぶれてないわよ!」

 確かに給料は多いとは言えないが、そういえば女子アナの給料というのはいくらくらいなんだろう。高山の実家は地元でも有名な総合病院だから、どちらにせよ金に不自由はしていなさそうだ。

 二人揃ってエレベータに乗り込む。高山が地下一階を押したので、横から手を伸ばして一階のボタンを押した。

「一階? トイレにでも行きたいの?」
「ここからなら電車で帰れるから。わざわざ送ってもらうのも迷惑だし」
 エレベータは一階に停まるが、出て行こうとした私を高山が腕を掴んで引き留めた。

「こ、これからウチに来ない?」
「え?」

「来るでしょ? 明日は祝日だし、私も仕事入ってないし、もらい物のいいワインがあるの。あなたが一生飲めないような値段のやつよ。冷蔵庫には確かチーズもあったし、さっきのレストランでは飲めなかったし……」

 言っている間にエレベータのドアが閉まって、動き出してしまう。

「祝日でも私は仕事があるんだけど」

「泊まっていってウチから行けばいいじゃない。車で送ってあげるわよ。ちょうどスーツで来てるし、インナーくらいなら私のを貸すし、何ならそんな地味なスーツじゃなくて私のスーツを着ていってもいいわよ」

 高山は私より細い。彼女の服が私に入るとは思えない。

「問題ないわね。早く行くわよ」
 地下一階でエレベータが開き、私は引きずられるようにして高山のマンションまで連行された。



  ***



 携帯のアラームで目が覚めた。クイーンサイズのベッドで高山に抱きつかれながら眠っていたらしい。中学時代はロングのウェーブヘアだった高山だが、今はばっさりと切り落としうなじの見えるショートカットだ。高山は頭の形がいいのでよく似合っている。小さな頭が枕代わりに私の胸を圧迫して、少し苦しかった。

 昨日の夜シャワーを借りたから、今着ているのは高山のパジャマだ。高山も隣で色違いのパジャマを着て眠っている。朝の気温では少々肌寒い。

 高山を起こさないように頭を下ろし、身体へ巻き付いた腕を引きはがす。二日酔いで少し身体が重い。昨夜は結局二人でワインを二本開けた。半分以上はやたらと機嫌のいい高山が飲んだのだが、そもそも私はあまり酒が強い方ではない。

 ふらふらと立ち上がり時計を見るとまだ六時だった。始発が動き出しているから、一度家へ帰って着替えるくらいの時間はありそうだ。パジャマを脱いで着てきたスーツに着替える。昨夜脱いで置いておいたはずのインナーが見つからなくて、仕方なく高山のクロゼットから適当なのを拝借した。SSサイズのTシャツは私には小さすぎてぴっちりしていたが、上からジャケットを着てしまえばぱっと見は分からない。

『仕事なので帰ります。黒いTシャツを一枚借りました。 宮本有子』

 メモに書き置きを残して部屋を出る。オートロックだから鍵をかける必要はなかった。

 途中コンビニで簡易栄養補給のゼリーと水を買い、乗客もまばらな電車の中で朝食を済ませた。電車から降りて歩きながら携帯を確認すると、太郎から三通もメールが届いている。昨日高山と食事をしている時に送ってきたらしい。一通目、写メに写っている蟹の人形はテレビでよく見かけるアレだ。二通目は夕食に旨いお好み焼きの店へ連れて行ってもらったという報告だった。三通目はホテルまで先輩と一緒で息が詰まるという愚痴。

『なんだよメールの相手くらいしろよー』

 こんな時間だから返信はせずに携帯を閉じた。

 家に着くと出勤時間ぎりぎりだった。インナーを替え、顔と歯を磨いて化粧を済ます。腕時計を気にしながらヒールのないパンプスで家を飛び出し、駅まで走った。ちょうどよくやってきた電車に滑り込む。なんとか遅刻は免れそうだ。

 そう思っていると、目の前に座っている中年のサラリーマンが持っていた新聞記事がふと目に留まった。

『小田響、高山彩子アナと熱愛発覚!』

 小田は去年MVPを獲得したプロ野球選手だ。中々の二枚目で女性にも人気があり、ファッション雑誌で特集が組まれたりする。反面、スキャンダルも多い。英雄色を好むを地でいく人物だ。

 電車を降りて会社に入ったところで高山からメールが届いた。勝手に帰ったことを怒っている内容だった。

『遅刻してないでしょうね!?』

 何気ない風に打たれた一言に頬が緩む。警戒心の強い猫は、毛を逆立てて威嚇するかと思えば気まぐれにすり寄ってこようとする。

 大人になってもやっぱり高山は可愛かった。私は彼女の素直じゃないところを結構気に入っているのだ。



 太郎が大阪から戻ってくる日の夕方、私は高山に呼び出されて少し奥まった場所にあるバーへ行った。向かっている途中に太郎から『あんたんちでメシ食うから』というメールが来たが、高山の方が先約なので断っておいた。『ごめん、今日はデート』

 指定されてたどり着いたバーはいわゆる隠れ家的な店だった。ツタの這った白壁、色あせた赤い屋根。玄関脇の壁にかかった金色のプレートに、フランス語らしい店の名前が刻まれている。私には読めない。

 高山はまだ来ていないようだった。カウンターへ座り、軽いカクテルを注文する。出てきた野菜スティックを囓っていると、十分ほどで彼女が現れた。

「もう来てたの? 早かったわね。今日は撮影が押しちゃって、大変だったの」

 遅れてきたことを素直に謝罪できないところもそんな自分に表情を曇らせるところも可愛らしい。私が微笑むと高山はほっとしたように隣へ座って飲み物を注文した。

 しばらくはとりとめのない会話を楽しんだ。つい数日前に飲んだばかりで、特に言うべきこともない。鞄の中でケータイが震える。高山に断って見ると太郎から電話がかかってきていた。

「ごめん、電話みたい」
「切りなさいよ。今は私といるんだから」
 そう言うわけにもいかない。苛立つ高山を宥めて、いったん外へ出た。

『あんた今どこにいるんだよ』
「どこって……」
『デートってふざけんなよ。くたくたになって帰ってきた俺の方が優先だろ!』
「疲れてるなら自分ちで休みなさいよ」

『あんたんちの前でタクシー返しちゃったもん。早く帰ってこいよ。メシ食わせて』
「はあ? じゃあ今ウチの前にいるの?」
 肯定の返事にため息が漏れる。

「私今日はいないってメールしたよね? ……合い鍵は?」
『持ってる』

「じゃあ中入ってていいから。冷蔵庫の中になんか残ってると思うから、適当に温めて食べて。泊まってもいいけど散らかさないでよ。明日仕事だし、遅くとも今日中には帰るから」

『早く帰ってこないと明日つらいのはあんただからな。こっちは一週間分溜まってるんだ』

「一人でしごいて寝てろ」
 冷ややかに言い放ち、乱暴に通話を切った。

 店へ戻ると高山の近くに数人の男たちがたむろしていた。どれもこれも最近の若者にしては体格がいい。高山は不機嫌そうな顔をしつつも男たちに引きつった愛想笑いを浮かべている。ナンパにしては様子がおかしい。

「なんだ彩子、一人で来てるのか」
「ええまあ。そういう気分なの。放っておいてくれる?」

「せっかくなんだ、一緒に飲もうぜ。お前みたいな美人がいてくれたら仲間たちも喜ぶし。なあ?」

 水を向けられて他の男たちが調子よくうなずく。なれなれしく高山の肩に手を回し、体のいいコンパニオン代わりにしようとしているその男には見覚えがあった。

 高山はなんとか男の誘いを断ろうとするが、男は強引に奥の個室へ彼女を連れて行こうと腕を引く。カウンターの上で握りしめられた高山の拳が白く小さく震えていた。

「高山さん」

 男たちの外から声をかけると、場の人間たちが一斉に私に向く。高山は焦ったようなほっとしたような顔で、男たちに分からないよう小さく首を横に振った。

「店、変えませんか。ここも素敵ですけど、今日は私の行きつけの居酒屋へ行きましょう」
 男たちの間から腕を差し出す。高山がおずおずと手を取ったので、遠慮なく男の手を払って高山を背後へ隠した。

「君は彩子の友達かな」
 高山の肩を抱いていた男が観察するように顔を覗き込んでくる。

「まあ、そうですね」
 テレビで見るより整った顔立ちだ。これなら高山の隣に立っても見劣りしないだろう。

「へえ。彩子の取り巻きにしてはめずらしいタイプ……女子アナには見えないけど。俺のこと知らない?」

 しかしにやついた顔は好感が持てない。ブランド物で繕っても人間性というものは外へにじみ出るものだ。

「プロ野球選手の小田響さんですね」
「そうそう。こいつらは同じチームのメンバー。ね、怪しい奴らじゃないだろ。そんなに警戒しないでよ」

「職業が分かっているというだけでは警戒しない理由にはならないと思います。最近は警察官でも犯罪を犯す人は多いですから」

「おっと、生意気。そんなにお堅くちゃ男も寄ってこないよ」
 仲間たちとそろって下品な笑い声をあげる。

「宮本さん、行きましょ」
 高山がスーツの袖を引っ張った。ちらりと背後に目をやる。店の入り口まで障害物になりそうなものはない。

「待てよ彩子。遊んでけって言ってるだろ。俺が誘ってるんだ。断るって言うなら球団に言って出禁にしてもらうことだって出来るんだぜ」

「そうそう。恋人の言うことは聞かなきゃなあ」
「スキャンダルは毎度スポーツ新聞の一面だもんな。さすが小田だぜ」
 背中にこつんと高山の頭が当たった。

「……恋人なんかじゃないわ。誰があいつなんか」
「え? 付き合ってるんじゃないの?」
 きっと高山が私を睨む。

「あんなのデマよ。あっちが勝手に付きまとってくるの。決まってるでしょう!? 新聞も雑誌もテレビも、面白ければいくらでも事実をでっち上げるんだから」

「アナウンサーのあんたがそれを言っちゃあね……」
 私は財布から少し多めのお札をカウンターに置くと、手に持ったままだった携帯電話を後ろ手で高山に握らせた。

「申し訳ありませんけど、高山は今日は私の貸し切りです。お先に失礼します」

「なに言ってんの? ああ、分かった。君も混ぜてあげるから。こんなのでも男ばっかりよりはマシだからな。一般人が野球選手とお酒が飲める機会なんて滅多にないよ?」

「職業の貴賎は気にしないタイプなんです。余計なお世話ですよ」

 話していても埒が明かないと思ったのか、小田は舌打ちして背後の高山に手を伸ばした。野球選手の太い腕は、それだけで立派な凶器だ。

 私はとっさに鞄を突き出して腕をそらし、高山を押すように店のドアへ走った。

「彩子!」
 すぐに小田が追ってくる。現役の野球選手の瞬発力ではすぐに捕まってしまうだろう。

「逃げて太郎に連絡して!」
 高山だけ店の外へ追い出し、ドアを閉めて小田の前に立ちふさがる。目前に迫っていた小田は、興奮のままに私の頬を打ち付けた。

「…………っ!」
「お、おい小田……ちょっとやり過ぎ」

 本当に女の子をからかうつもりしかなかったのだろう。他のチームメイトたちは若干引き気味で小田を見ている。

「お客様、騒ぎは他のお客様の迷惑になりますので」

 この段階になってようやく、店員が注意をしてきた。小田は財布からチップを抜くと店員の胸ポケットに押し込み、笑みを浮かべて謝罪する。

「すみません、彼女があんまり我が儘をいうもので、ついかっとなって。ねえ、君。お店の人に迷惑になるから、奥へ行こうね」

「お断りします」
 すると耳元に口を寄せてささやく。

「今から追いかけてもいいんだぜ? 女の足じゃあ逃げ切れないだろうな」
「……私が行けば高山は逃がしてくれるんですか」

「まあ彩子とは比べものにならないくらいの粗悪品だが……俺ちょっと君に腹が立ってるんだよ。悪いことする子はお仕置きしなきゃなあ?」

「わかりました」

 小田の言を信じたわけではないが、少なくとも私が相手にしている間はこいつは高山を追えない。私は小田について男たちと共に奥の個室へ入った。

 店員が注文に来たが私は注文させてもらえなかった。小田が私の分まで酒を決める。度数の高い酒をいくつも頼む。酔い潰すつもりなのだろう。酒と食べ物がそろうと何事もなかったかのように男たちは飲み食いを始めた。観察してみれば小田以外はちょっとふざけすぎた所のあるだけの普通の若者だ。その場のノリで少しの無茶なら出来てしまうが、犯罪に出るほどの度胸はない。

「きみ名前はなんていうの?」
 泣きぼくろの男が向かい側から話しかけてくる。

「宮本です」
「ええ? こういう時は下の名前でしょー」
「……有子です」
 隣から別の男が口を出した。

「彩子ちゃんとはどういう関係?」
「同じ中学でした」
「中学校からの友達なんだ。仲良いんだねえ」

 中学時代、高山と会話をしたのは数えるほどだ。卒業してからは一度も顔を合わせたことがなかった。しかしそんなことを教えてやる義理はない。

「君、お酒強いの?」

 鼻先にライムの引っかかったグラスを突きつけられ、振り返った。グラスを持った手の先で小田がにやにやと笑っている。グラスを受け取り、テーブルに置く。

「普通だと思います」
「普通って? 気になるなあ。じゃあ飲んでもらおうか」
「お。有子ちゃん一気いく~?」
「飲めるクチ? コールコール」
「コールはやめとけ。あんまり騒ぐと店の迷惑だろ」
 誰も止めやしない。小田に顎で促され、私は細いグラスを一息に飲み干した。

「はい次」

 カクテルグラスの酒は量が少ない分アルコール度数が高いことが多い。色も味も楽しむ暇などなく、立て続けに五杯飲んだところで誰かが水を手渡してくれた。

「すげー。女の子なのに飲むねえ」
「なんだ、強いじゃん。まだいけそう?」
 アルコールが回って目眩がする。座っていられなくて何か硬いものにもたれかかった。

「この程度でへばっちゃって。さっきまでの威勢のよさはどこに行ったんだか」
 顎を掴んで上を向かされる。迫ってくる小田の顔。

「これ以上飲めないって言うなら別のことで楽しませてもらおうか」
 乱暴に胸を掴まれて唇を吸われた。



「ひあっ、んうっ、やめっ、イクぅっ」
 小田のチームメイトたちはごくりとつばを飲んでその光景を凝視していた。

「す、すげえ、有子ちゃん」
「指と舌だけで……あそこは指一本触れてないのに」
「あんなに乱れて……」
「あああっ、もう離してえっ、おねが……脱がして、汚れ……っ」

 私はジャケットさえ脱いではいなかった。スーツのズボンももちろん下着も、髪の毛一本乱されたところはない。乱れに乱れ喘ぎ声を上げているのは、私に組み敷かれた小田の方だ。

 耳のピアスを唇で引っかけて揺らし、その裏を舌先で舐める。Tシャツをたくし上げ乳首を摘みながら脇腹を撫でてやると、小田は可哀想なくらいに悶えた。

「もうイクんですか? まだ大事なところ触ってないのに……こんなんじゃ楽しんでもらえてませんよね、小田さん」

「い、いいっ、いいからぁ……ズボン、汚れる……っ」

「困りましたね。こんな時間じゃ服買うにもどこもお店開いてませんよ。小田さんみたいな有名人が前濡らしたまま帰ったら、どこかの雑誌にスクープされちゃうかも」

「やめっ、助けてっ」

「そうですねえ……そうだ。もう高山にちょっかい出さないって言うなら助けてあげますよ。報復にいやがらせするのもダメです。もしそんなことしたら局の女の子たちに小田さんがバーでお漏らししたって噂流しちゃいますからね」

「わ、かったから……っ、早くぅ」

「それから、女の子にもう少し優しくしてあげた方がいいですよ。さっきみたいに殴っちゃいけませんよね。小田さん力あるんだから。私、口の中切れちゃいましたよ。お酒がしみて痛いんです。謝ってもらえます?」

「ああんっ、ひっ、ごめんな、さいっ」
「よし。じゃあ素直に謝れたご褒美にもっと楽しませてあげますね」

 ベルトを抜き、ズボンを下ろす。ぴったりとしたボクサーパンツでは性器が完全に勃起しているのが丸わかりだ。カウパー腺液でワインレッドの布地が濡れている。

「触って欲しいですか?」
「あ……イかせ、て」
「仲間が見てますけど。こんないやらしくなったの、外に出していいんですか?」

「はや、くぅ」
 私はパンツを引き下げた。

 まあ自信たっぷりだっただけあって、股間の物も立派だった。陰嚢や裏の筋を撫でてやると、先からとろとろと白濁した液体が出てくる。ソファに落ちる前にテーブルの上の濡れタオルを敷き、もう一枚で先を覆った。

「ココと、あとどこがいいですか。最後に舐めてあげます。乳首ですか、耳ですか、首ですか?」

「あ……、お……」
「ああ、おへそですか。こんなところまで感じるんですね。面白いな」
 ぬるりとへその周りを舐め、穴をこじ開けるように舌を差し込んでやる。

「や……っ、ああああっ」
 同時に性器を下からしごいてやれば、小田は息を詰まらせあっけなく達した。

 新しいタオルで手を拭き、鞄からいつかコンビニでもらったビニール袋を出して精液の付着した使用済みタオルを入れる。口をしばって部屋の隅のゴミ箱に捨てた。

 小田は射精してしばらく魂が抜けたように呆けていたが、私が立ち上がると、のろのろと濡れたパンツを履きズボンを上げた。

「はい、ベルトです」
 金属のビスがついた重いベルトを手渡してやると、目が合って小田は硬直する。

「約束、覚えてますか?」
 壊れた人形のようにこくこくとうなずく。

「約束、守れますか?」
 こくこく。

「私、十分に小田さんを楽しませられました?」
 こくこく。

「じゃあもう帰ってもいいですよね?」
 こくこく。

 許可がいただけたので鞄を持って立ち上がる。アルコールのせいで足下がおぼつかないのを、泣きぼくろの男が支えてくれた。

「だ、大丈夫?」
「すいません……あ、飲み代」
「い、いいよ、奢るから! 俺たちが誘ったんだし」
 一箇所に固まっている他のメンバーもうなずいて同意する。

「そうですか? じゃあ、ごちそうさまでした」
「有子ちゃん、この状態でどうやって帰るつもり……?」
「タクシーだとちょっとお金が心許ないので、電車か……」
「む、無理だよ! まともに歩けないのに!」
「はあ。まあ多分そろそろ迎えが来るので大丈夫です」
 高山がちゃんと連絡してくれていれば、そろそろ来てもいい時間だ。

「あ、あのさ」
「はい?」
「有子ちゃんって、そういう店で働いてるの……?」
「え? ああ、これですか」
 指先で男の首筋を撫でる。

「ひあ……っ」
 男はそれだけでへたり込んだ。

「な、なに今の……」
 私は涙目になって顔を真っ赤にした男に、上から微笑む。

「男の人ってホント感じやすいですよね」
 男たちは絶句して、ふらふらと出て行く私を無言で見送った。



「有子っ、無事か!?」
 それから五分もしない内に太郎はやってきた。私はカウンターに座って水を飲んでいた。

「高山さんは?」
「そこの喫茶店で待ってる。帰れっつったのに聞かねえの。気の強えー女」

「車で来た?」
「あんたんちから直で来たんだぞ。電車に決まってるだろ。そっちの方が早いし」

「そう。ちょっと困ったわね」
「なにが?」
「歩けないの」
 椅子から下りて床に足をつくが、歩こうとして膝が抜ける。

「飲み過ぎちゃって」
「仕方ねえな」

 太郎は背中を向けてしゃがんだ。私は首に手を回して覆い被さる。軽くはないだろうが、太郎の足取りは思ったより力強い。私は背負われたまま店を出た。

 くんくんと太郎が鼻を鳴らして顔をしかめる。

「あんた、男物の香水のにおいがする。からまれた男たちはどうなったんだよ。乱暴されたのか?」
「本当に乱暴された女の子にはそういうこと訊かない方がいいよ。デリカシーのないやつ」

「普通の女には訊かねえよ。で、どうなんだ」
「一発殴られたけど、あとは別に。仕返しにちょっといじめてやった」

 少し長い紅茶色の髪から覗く白い耳たぶをつついてやる。

「わっ、馬鹿、やめろ! 落とすぞ」
「ふふふ」
「……あんた、酔ってるな」
「歩けないくらいねえ。明日死にそう」

「二日酔い酷えもんな、あんた。会社には休むって連絡してやるよ」
「やめてよ、男の声でなんて。何事かと思われるじゃない」
「彼氏だって見栄張っとけば」

「冗談」

 ガラス張りの喫茶店の前まで行くと、高山が飛び出してきた。泣きはらしたように目が赤い。アイラインも流れてひどい顔だ。

「宮本さん! まさか小田に……!」
 太郎に背負われている私を見てなにか勘違いしたらしい。高山は真っ青になって震える。

「いや、これはただの飲み過ぎ。平和的な話し合いで、小田に二度とあなたには近付かないって約束してもらえたよ」

「うそっ」
「ホント。ほら、服も髪も乱れてないでしょ」
 まあ、何事もなくって言うと語弊があるかもしれないが。

「ほら、喫茶店で氷とタオル分けてもらってきなさい。その顔でテレビに出る気? 女子アナ高山彩子のファンがびっくりするよ」

「ご、ごめんなさい……私が巻き込んだせいで」
 首を振る。

「いやいや、あれは完全に向こうのせいでしょう。高山さんが気に病むことはない」
 高山は赤く腫れた目から綺麗な一粒を流す。

「……ありがとう」
 美しい涙だった。

「私はこのまま太郎に送ってもらうけど、高山さんは?」
「タクシーで帰るわ。ここからならそう遠くないし。この顔じゃ人前には出たくないしね」

「そう。じゃあおやすみ」
 太郎に背負われ、いつもより背の高い私に高山が上目遣いで言う。

「……また、誘ってもいいかしら」
「今度は私の好きな店を紹介させてね」

(7)結婚

『来週の日曜、空けとけよ』
 電話口で太郎にそう言われたのは、展望レストランでダイヤのエンゲージリングを見せびらかされた数週間後のことだった。

「来週? どこか遊びに行くの?」
『実家にな』
「また急に。何かあった?」
『あっただろ。人生の一大事が』
「はあ? そんな大事件あった?」

 電話口で太郎がため息をつく。

『とにかく、空けとけよ。別に何も用意はいらないから』
 電話を切って、私はソファに寝転んだ。

「さて、どうするか」



 私は馬鹿でも天然でもないから、太郎が『私に』プロポーズしているのだということくらい、当然わかっている。無理に誤魔化したのはそれを受ける気がないからだ。あれで太郎が諦めてくれればそれでいいし、遠回しに断っているのだと察してくれればラッキーだと思っていた。

 しかし太郎は誤魔化されてくれるつもりはないらしい。私の返事を聞く前に、外堀を埋めて逃げられないようにしようとしている。

 あいつと私の関係は中学の頃から変わってはいない。太郎はついこの間まで歯科衛生士の彼女がいたし、私にその存在を隠しもしなかった。あいつとの間に恋愛感情が生じたことはないし、今もないのは確かだ。ならなぜ急に結婚なんて言い出したのか。何か理由があるはず。

「――というわけなんだけど、瀬能君なにか知らない?」
「ええと……多分、アレが原因かな……」

 急に呼び出されたにも関わらず、瀬能は嫌な顔一つ見せず待ち合わせ場所のカフェに来てくれた。苦笑いをしながら心当たりを教えてくれる。

「斉藤、この間会社の上司に見合いを勧められて、断り切れずに一度だけ食事をしたんだよ。その相手にものすごく気に入られちゃって」

「ああ……防波堤が欲しいってわけ」

「うん。その相手っていうのが斉藤の会社の大きな取引先の社長の娘で、強く出られないみたいで。まあ中々の美人ではあるみたいだけど。斉藤だからねえ」

 どんな美人でも三ヶ月以上続いたことのないあいつにとっては、相手がどれほど条件のいい女性でも永遠の愛など誓えないのだろう。

 納得していると、ふと瀬能がつぶやいた。

「でも、確かに有子と結婚するのが一番いい手段かも」
「は?」

「斉藤もいい歳だからね。今回は逃げ切れても今後そういう話は山のように舞い込むだろう。あいつはなんだかんだで仕事の出来るやつだし、あの外見だし、上司ウケもいいしね。気に入らない相手と結婚しなきゃならないくらいなら、有子と結婚してしまうのが一番手っ取り早い。今だってほとんど同棲状態なんだろ?」

「同棲……」
 というより、同居だろう。

「それに、怖いのかもしれない。有子ももう三十だろ。普通の女性なら結婚に焦り出す時期だ。有子が他の男と結婚すれば、斉藤とも今までみたいに過ごすわけにはいかないだろうし」

「私、結婚するつもりはないんだけど」

「絶対とは言い切れないだろ。今はそのつもりがなくても、いつかはね。もし結婚することになったら、有子は誰になんと言われてもやめないだろうし。斉藤と結婚すれば、有子をずっと側に留めておける。俺は有子と斉藤の結婚には賛成だよ。ずっと今と変わらない関係でいられるから」

「そういう瀬能君だって、いつかは結婚するでしょ。離れていくのはきっと、あなたの方だわ」
 冷めたコーヒーを飲む。

「私たちももう、そういう年齢なのねえ」
「そうだね。変わりたくないと思っていても、周囲がそれを許してくれない。有子はどうするつもり?」

「どうする……」

「俺は別にいいと思うよ、友情で結ばれた夫婦っていうのも。結婚っていうのは他人同士が家族を作るための一つの手段でしょう。斉藤はあなたと家族になりたいんじゃないかな」



 私の父親は幼い頃からほとんど家にいなかった。母親は中学一年生の時に離婚して私を父親へ押しつけた。父親は私を引き取ってくれたが、私と一緒に暮らしてはくれなかった。

 寂しいと思わなかったわけではない。けれど物心ついたころから父親は私にとって『家族』ではなかったのだ。寂しさの穴を埋めてくれたのは太郎だ。あいつは私の親友で、大切なたった一人の『家族』だった。これまでずっと、ずっと。

 だから、私は指輪を見せられた時、悲しかったのだと思う。



 日曜日、太郎は車で私を迎えに来た。
 助手席に座った私に、太郎は小さな箱を投げよこす。

「これ……」
「忘れ物。なにを勘違いしてるのか知らねえけど、それはお前にやったもんなんだからな」
 中にはダイヤモンドの指輪。私はそれを指にはめることはせず、手の中で転がす。

「お見合いしたんだって?」
「なんでそれ……瀬能か? あんなの、上司に言われて無理矢理連れて行かれたんだ。当然断ったよ」

 車は一時間ほどで斉藤家へ到着した。サラリーマンの斉藤父はともかくエステサロンを経営しているセシルさんは土日でも日中はあまり家にいることがないのだが、今日は前もって知らせていたのだろう、二人揃って在宅だった。

「まあいらっしゃい、有子さん。お久しぶりね」
「こんにちは、セシルさん、おじさん。ご無沙汰してます」

 私たちは居間に通され、コーヒーと手作りのクッキーを勧められた。セシルさんはお菓子作りに関しては昔から私なんかよりよっぽど上手かった。というより私にはちまちまと計量を繰り返すあの作業が性格的に向いておらず、菓子類を手作りするという習慣がなかった。

 斉藤夫妻とローテーブルを挟んで向かい合うようにして座った私たちは、なんだか緊張した雰囲気でしばらくは無言だった。セシルさんは機嫌良さそうに、斉藤父はどこか思案顔で私たちが話し出すのを待っている。

 沈黙の糸を切ったのは太郎だ。

「あのさ。俺有子と結婚するから」
 セシルさんの顔がぱっと明るくなる。

「まあ、本当に!?」
「……宮本さんは承諾しているんだろうね?」
 斉藤父がそう言って私を見る。

「いいえ。太郎と結婚するつもりはありません」
 はっきりとそう告げる私の隣で、太郎は立ち上がって叫んだ。

「なに言ってんだよ、有子!」
 セシルさんは困惑した様子で私たちを見ている。斉藤父は難しい顔で腕を組んだ。

「え、え? どういうことなのかしら」
「太郎の勇み足ということなのかな」

 考えてみれば妙なことだった。私は太郎のプロポーズに一度だって「はい」と答えたことはない。なのに太郎は、どうして私が結婚するつもりだなんて考えたのだろう。

 私は車の中で渡された指輪の箱を太郎の前に置く。

「これはもらえない」
「なんでだよ! あんた一言も嫌だって言わなかったじゃん!」
「イエスとも言ってないわね」
「じゃあ今言えよ、俺と結婚するって!」
 馬鹿なことを言う。私は肩をすくめた。

「今、言ったでしょ。返事はノーよ。あんたと結婚する気はない」
「だからなんでだよ! 他に好きなやつがいるわけでもねえだろ! じゃあ別にいいじゃねえか!」

 斉藤父がため息をつきながら言った。

「太郎。結婚は『別にいい』なんて理由でするもんじゃない。プロポーズの返事も聞かずここへ連れて来るなんて、お前は昔から少し宮本さんに甘えすぎているよ。少し頭を冷やしなさい」

 太郎は押し黙る。私はバッグを持って立ち上がった。

「お騒がせしてすみませんでした。今日はこれで失礼します」
 頭を下げて席を後にする。後ろから太郎が追いかけてきているのは分かっていたが、そのまま足早に斉藤家を後にした。


「有子! 待てよ!」

 門を出ようとしたところで太郎に腕を掴まれた。成長期を終えた太郎は百九十センチ近い長身で、就職した今でもバスケを続けているから握力も強い。本気になれば女の力では振り払うことも出来ないと分かっていたので、私は大人しく歩みを止めて振り返った。

「なに?」
「なんで俺と結婚できねえんだよ」
 住宅街の往来だ。そういうプライベートな話をする場所には相応しくない。

「……車で話しましょうか。家まで送ってくれるでしょ」
 私たちは無言でガレージへ足を向けた。

 助手席へ乗り込み、シートベルトをつける。太郎はいささか乱暴にアクセルを踏み込み、車を発進させた。

「話せよ。なんで俺じゃダメなんだ」
「私、あんたに恋をしたことなんてないわ。あんたもそうでしょ?」

「それは……でも、俺はあんたを愛してる。ちゃんと言ったことはなかったかもしれないけど、あんたもそれは分かってくれてると思ってた。あんたも俺のこと好きだろ?」

「そうね」

「結婚に必要なのは恋愛感情じゃねえって、どっかの本に書いてあった。俺はあんた以外の女と恋もセックスもするけど、あいつらと結婚しようなんて考えたことはない。結婚してもいいって思える相手はあんただけだ」

 私はため息をもらす。

「そういうことは普通、プロポーズの前に言うべきだと思うけど。
 ……瀬能君にも言われたわ。結婚は他人同士が家族になれる手段の一つに過ぎないんだから、友情で結ばれた夫婦ってのも悪くないんじゃないかって。私も、この歳で結婚に少女じみた理想を求めるつもりはない。ただ、あんたとは結婚したくない」

 信号待ちで停車した車の中で、太郎はドアウィンドウを殴り付ける。隣に並んだ車の運転手がびくっと驚いてこちらを見た。

「なんでだよ……今までだって夫婦同然だったじゃん。あんたんちでメシ食って、セックスして、そのまま泊まってくことだってめずらしくなかっただろ。なんで紙切れ一枚サインするのがダメなんだよ」

「紙切れ一枚、ね。だからダメなのよ」
 太郎は分からないという顔で私を見る。

「分からない? 太郎、私はね、今とても怒ってるのよ」
「怒ってるって……なんで?」
「なんでかしらね。その理由が分からない内は、正直あんたと顔も合わせたくない」

「なっ……お、俺あんたを怒らせるようなことしたか!? プロポーズしたのがそんなに気に障ったのかよ!?」
 通り過ぎたビルの前にバス停が見えた。

「車、停めて」
 言うと、太郎は大人しく道の端に車を停止させる。

「プロポーズは理由の一つだけど全部じゃない。分かるまではウチに来ないで」
 私は言い捨てて車を降りた。



  ***



 有子を実家へ連れて行った翌日の夕方、太郎は大学時代からの友人である瀬能を呼び出した。

「悪いな瀬能、急に呼びだして」
「いや、ちょうど仕事が一段落したところだったし、俺もお前と飲みたいと思ってたとこ」

 二人は適当な居酒屋に入ってビールと肴を注文した。太郎の美貌は三十を目前にしても衰えることを知らない。むしろ年々輝きを増すばかりだ。その上スマートな瀬能が隣にいるとなっては、女性客の視線が集まらないわけがなかった。

「浮かない顔だな。有子とはうまくいかなかったのか」
「ああ……もうわけわかんねえ」
 瀬能は落ち込む太郎のグラスにビールを注いでやる。

「結婚、断られたのか」
「そうだよ。親の前で指輪突き返された」
「そっか……俺の言ったことが悪かったのかなあ」
 太郎はがばっと頭を上げて瀬能を睨んだ。

「言ったことってなに!? お前、あいつにお見合いの話もらしただろ。他になに言ったんだ!?」

「お、怒るなよ。俺はむしろお前の味方をしたんだぞ」
「な・に・を・言ったんだ!?」
 首を絞められそうな勢いで詰め寄られる。

「有子が、お前がなんで急に結婚を申し込んできたのか理由を知らないかって言うから、見合いの話と……お前が怖いんじゃないかって」

「怖い?」

「宮本が他の男と結婚して離れて行ってしまうのが。だから結婚してずっと有子を側へ留めておきたいんじゃないかって。お前と有子が結婚すれば俺たちはずっと変わらない関係でいられる。だからお前たちの結婚には賛成だって、俺は言ったんだ。
 お前と有子の間に恋愛感情がないってことは分かってるよ、長い付き合いだからな。男と女があれだけ近くにいて恋が芽生えないなんて、最初は信じられなかったが……今なら分かる。俺も同じだ。有子に恋をしてた時代がないとは言わないけど、今は恋人以上に大事な親友だよ、もちろんお前も。
 でも、お前たちはもっと深い関係で結ばれてる。お互いもうほとんど家族同然の存在なんだろ。結婚っていうのは元々他人の男女が新しい家庭を築くための手段だ。だからお前たちの間に男女の情がなかったとしても、きっと結婚生活は上手くいくと思ったんだ」

「……俺だってそう思ってたよ。でもあいつは……あいつにとっての俺はそこまでの存在じゃなかったんだ」

 瀬能は眉を寄せる。

「斉藤、宮本に何か言われたのか?」

「怒ってるって。プロポーズしたこと。あいつとは何度も喧嘩したけど、顔も見たくないなんて言われたのは初めてだ。怒ってる理由が分かるまで家には来るなって言われた」

「怒ってる理由なら、プロポーズしたことなんだろ?」
「それだけじゃないらしい。お前、分かるか?」

「斉藤に分からないのに、俺に分かるわけないだろ。俺は有子に怒られたことなんて一度もないからな。彼女の逆鱗がどこにあるのかさえ分からない」

 太郎は泡の消えたグラスをぐっと飲み干した。

「俺にだって分からねえよ。あいつは昔っから分かりにくいんだ。俺のことはなんでも知ってるくせに、自分のことは何も言おうとしない。いつも後で気付くんだ。あいつが怒るのも泣くのも全部俺のためなんだって。俺はずっとあいつを傷付けてばかりきた」

「斉藤。有子はそんなこと思っていないよ」

「お前と知り合った時のことだって、学部の女が教えてくれなきゃあいつは一生黙っていただろうよ。俺が知ってるだけでも、あいつは俺の側にいるだけで随分嫌な目に遭ってる。それ以上に酷い目に遭ったことだってあるんじゃないか。でもそんなこと、一言だって言ってくれないんだ。一度だって頼ってくれたこともない。いつだっていつの間にか一人で解決してる。それが出来る女だからな」

 瀬能は小さく笑う。

「なんだ、斉藤。のろけみたいだぞ」
 太郎は新たに瀬能の注いだビールを飲み干し、お通しの枝豆を掴んだ。

「のろけてんだよ。俺は器量のいい女もスタイルのいい女も教養のある女も好きだけど、結局あいつ以上にイイ女なんてどこにもいねえんだ。あいつは自分を地味でブスでつまらない女だって言うけど、一度あいつを知ってしまったら誰ももう手放せない。お前だってよく分かってるはずだ」

「そうだな」
 太郎は冷たいテーブルに額を押しつけてつぶやく。

「分かんねえよ……あいつにとっての俺は、そんなに簡単に切り離せるものだったのか?」
 瀬能は肩肘をついてネクタイをゆるめた。

「なあ斉藤。有子が何を怒っているのか俺には分からないけど、彼女がお前を許してくれなかったことなんてあるのか?」

「あったら今頃こんなことで悩んじゃいねえ」

「有子はちゃんと教えてくれたんだろ、怒ってるってことも、その理由がプロポーズだけじゃないってことも。だけじゃないってことは、プロポーズしたことも怒りの原因の一つってことだ。ならその他の理由っていうのは、それに関わる何かなんだろう。
 有子はお前のことを誰よりもよく分かってるし、お前に無茶な要求をするような人じゃない。ならその理由っていうのは、もうお前の中にあるんじゃないのか。気付いていないだけで」

「そうかな……あいつが俺ともう縁を切りたがってるんなら、不可能な要求だって」
「そういうフェアじゃないことは、有子はしないよ。
 お前、なんで有子に結婚を申し込んだのか、もう一度よく考えてみろ」



  ***



 金曜日の夕方、更衣室へ行くと、すでに着替えを終わらせた若い女子社員たちがなにやら興奮した様子でたむろしていた。終業後の更衣室というのは往々にしてお喋りに賑わうものだが、今日はいつになく騒がしい。

 三十を目前にした私は、いつの間にか事務の女子社員としてはずいぶん古株になってしまっていた。それでもまだ数人、入社当時からの先輩社員が残っている。若い集団から少し離れた場所で着替えていた一人に、騒ぎの原因を尋ねてみた。

「どうしたんですか、今日に限ってあの子たち。七時から合コンだって言ってませんでしたっけ?」
 時計はすでに六時四十分。駅で待ち合わせならそろそろ急いだ方が良さそうなのに。

「男がいるのよ」
「は? 変質者ですか?」

「馬鹿ねえ、変質者ならあんなにきゃっきゃ言わないでしょ。とんでもなく綺麗な顔した外国人よ」

「…………」
 まさか、と思いつつ訊ねる。

「……表玄関前ですか?」
 先輩社員は肩眉を上げて答えた。

「そうよ。めずらしいわね、あなたが男の話題にのってくるなんて。宮本さんでもイイ男には興味があるんだ? でも誰かを待ってる様子だったわよ。ここのビルに彼女が勤めてるんじゃないかしら? 残念だったわね」

「いえ。……お先に失礼します」

 化粧直しもそこそこに、私は更衣室を後にした。いつもなら表玄関から帰るのが駅に近いのだが、今日は念のため業者の通用口へ回る。

 ところが外へ出たところで誰かにぶつかり、抱き留められた。

「お疲れ様、有子」
「……瀬能君」

 社員はほとんど表から出るが、車で通勤してくる営業の人間は駐車場に近い通用口から帰るのだ。後から出てきた顔見知りの社員たちに男と抱き合ってるところをじろじろ見られ、私は瀬能から離れようともがいた。

「ちょっ……なんで会社に来るの!?」
「ダメだよ、逃がすわけにはいかないんだ。斉藤が向こうで待ってるからね」

「冗談でしょ。会社中の女子社員があいつを見てるのよ」
「あいつ目立つからなあ。有子の求婚者だって知ったら大騒ぎだね」
 瀬能は面白がっている。

「逃げないから。せめて人のいない場所で……」
「ダメ。斉藤だって覚悟を決めてきたんだ。有子には受け止める義務がある」
 義務。そうだろうか。勝手に結婚を決意して、私を怒らせたのは太郎だ。

 瀬能は不服そうな私の顔にちょっと笑って、逃げられないよう私を抱き上げた。社員たちがぎょっとした目でこちらを見ている。

「あいつを甘やかして育てたのは有子だよ。あなたなしでは生きられないようにしたのも有子だ。責任をとらなくちゃ」

 そしてそのまま横の路地を抜け、表の通りへ出る。

 太郎の周りには人だかりが出来ていた。集まっているのはウチの会社の女子社員ばかりではない。合コンだと騒いでいた後輩社員たちも、時間を無視して太郎に話しかけている。

 ヒールを履いた女性たちに囲まれても頭一つ抜けた太郎は、少し離れた場所にいた私を見つけてすぐに駆け寄ってきた。かき分けられた女性の中でも私の顔を知っている女子社員たちは、太郎の向かう先に男に抱き上げられた私がいることに気付き、信じられない顔で目をむいている。

「有子! てめえ、逃げようとしたな!」
「この馬鹿。なんで会社に来るのよ」
「お前が家に行くなって言ったからだろ!」
 私は深くため息をついて、瀬能に降ろしてもらう。

「家に来られないってことは、まだ答えが分かってないのね。顔も見たくないって言わなかった?」
「言われたよ! でも考えても分かんねえんだよ、あんたが何を怒ってんのか!」

「甘えないでよ。怒鳴ったって今回ばかりは私も許す気はないんだから」
「…………っ」

 太郎はゆっくりと深呼吸して息を整えた。

「……頼む、教えてくれ。なにが悪かったんだ。俺はただ、あんたと本当の家族になりたいと思っただけだ。結婚したからって仕事やめろとは言わないし、家庭にしばりつける気もない。今まで通りでいいんだ、何も変えなくても」

「今まで通りでいいなら、結婚なんて必要ないじゃない。あんたは何も分かってない」

「分かんねえよ! 分かんねえからこうして訊いてるんだろ! 昔っからあんたは、俺を甘やかすだけ甘やかして、自分のことなんてなにも教えてくれなかったじゃねえか。あんたが考えてることなんて俺には分かんねえ……」

 声がしりすぼみに小さくなっていく。私は太郎の顔を見て、ぎょっとした。

「ばっ……泣くことないでしょ」
 綺麗な薄茶色の瞳から、いい歳した男とは思えないほどぼろぼろと涙を流している。

 私は慌てて鞄からハンカチを取り出し、白磁の頬に押し当てた。

「有子」
 後ろから瀬能が話しかける。

「そろそろ許してやったら? 斉藤も足りない頭で頑張って考えたんだし」
「瀬能、てめえ……」
 私はふう、と一つ息を吐いて、肩の力を抜いた。

「仕方ないわね、ホント。あんたがそうだから、私もついつい甘やかしちゃうんじゃない」

「じゃあ……」
「ただし、場所を変えるわよ。あんたたちのせいで注目の的じゃない。来週からどんな顔して会社に行けばいいんだか」

 こんなでかい男を泣かせたなんて、きっと今夜中に会社中の噂になるだろう。どんな尾ひれをつけて広まるのか、考えるだけで胃が痛くなる。

「ウチへ行きましょうか」



 婚姻届なんて紙切れ一枚に、一体どれほどの意味があるのだろう。紙切れ一枚で結ばれた関係は紙切れ一枚であっけなく終わる。私の両親がそうであったように。

 家へ帰ると瀬能がコーヒーを入れてくれた。何度か来たことがあるから、コーヒー豆の場所もメーカーの位置も知っている。私と太郎はローテーブルを挟んで向かい合って座り、コーヒーが来るのを待った。

「俺は席を外しますね」
 マグカップを運んできた後、そう言って出て行こうとした瀬能に首を振る。

「いいよ。どうせ後で太郎からことの顛末を聞くんでしょ。二度手間になるわ」
 瀬能は窓を背にしてカーペットの上に腰を下ろし、私たちを見守った。

「太郎。あんたはどうして私と結婚したいなんて言い出したの」
「言っただろ。俺は、結婚するならあんたしか考えられない」

「結婚するなら、ね。結婚は誰かに強制されてするもんじゃないでしょ。今の世の中一生結婚しないで済ます人だってめずらしくないはずよ」

「でも……俺はあんたと離れたくない。あんたが俺以外の誰かのものになるなんて耐えられない」
「私が恋愛できないこと、あんたも知ってるはずよね。なのになんで私が誰かのものになるなんて発想が生まれるの?」

「そんなの分かんないだろ。この先あんたが俺以上に誰かを好きになることだって、無いとは言い切れない」

「……あんたはさっき、私を家庭に縛り付けるつもりはないって言ったけど、それは結婚で私を縛り付けるってことじゃないの?」

「それは……そうかも知れないけど」
「あんたにとって私は、縛り付けていないと心配でたまらない存在なのね」
 そう言うと、太郎は何を勘違いしたのか机に乗りだして叫んだ。

「それくらいあんたが欲しいんだ。もう俺にとってあんたは人生の一部なんだよ」

「そんなこと、知ってるわ。これまでの人生の半分以上を一緒に過ごしてきたんだから、そう簡単に切り離されちゃ堪らないわよ。私が言ってるのはそういうことじゃない。あんたにとって私は、縛り付けてないとどこかへ行ってしまう信用のならない存在なのねってこと」

「は……」
 ほどよく冷めたコーヒーで喉を潤す。

「馬鹿にしてるわ。紙切れ一枚がなんの役に立つって言うの? 指輪一つで私を縛れると? 私がそんなに信じられない? これまでの年月はなんだったのかしらね。私はあんたが好きだから側にいた。あんたが大切だからこれからも側に居続ける。確かに将来のことなんて誰も保証できない。でもそんなの、結婚してたって同じでしょ。私は私の意思でしか動かない」

「有子……」

「確たる証が欲しいなら、別の人を探しなさいよ。どのみち、私は私の意思であんたを離さない。婚姻届が必要? 結婚が他人同士を家族にする手段だというのなら、私たちはもうとっくに家族じゃないの? 私はずっとそう思ってきた。あんたは違うの?」

 太郎は激しく首を横に振る。

「違わない。ずっと側で俺を育ててくれたのはあんただ。メシを食わせてくれたのも、進路の相談に乗ってくれたのも、悪いことを悪いことだと叱り飛ばしてくれたのも、全部あんただ。俺もずっとあんたを家族だと思ってきた」

 私はため息をつく。

「……太郎、私が怒っているのはね。あんたが私を信じてくれていなかったことが、すごく悲しかったからよ。ずっとあんたを愛してきたこの気持ちが婚姻届一枚なんかより軽いって言われて、悔しかった。私の気持ちはあんたに伝わってなかった?」

「ごめん……ごめん。ずっと知ってた。伝わってた。あんたは俺を愛してる。決して俺を裏切らない。見捨てない。そんなつもりじゃなかったんだ」

 太郎はカップの乗ったテーブルを押し除け、私の首に縋った。

「許して。怖かったんだ。あんたは何も言ってくれないから。感じることはできても、不安だった。俺はいつもあんたから貰うばかりだ。愛情も、快楽も。いつか見放されるんじゃないかって、心のどこかで思ってた。結婚すれば少しは枷になるんじゃないかと考えてた」

 私は熱い太郎の身体を抱きしめる。

「私だってあんたからいろんなものをもらってる。あんたが気付いていないだけで」
「そんなの、微々たるものだろ」

「馬鹿ね」
 私は笑った。

 太郎は知らない。私に与えてくれたものの大きさを、大切さを。
 唯一の家族。それは幼い頃に私が失い、切望したもの。

 紙切れ一枚の関係は紙切れ一枚で終わる。だから私と太郎にはそんなもの必要ないのだ。この胸の中に、決して切れない絆が確かに存在しているのだから。

 私は太郎を愛している。太郎は私を愛している。それは決して恋ではないけれど、だからこそ信じられる。

「円満解決、なんだか妬けるな」
 ちょこんと座った瀬能がつぶやく。私は手を伸ばして太郎と一緒に抱きしめた。

(8)蛇足

#1

「まったくお前らは……」
 いつぞやの居酒屋で、瀬能は太郎を前に腹の底から深いため息をついた。

「仲がいいというか、良すぎるというか」
「呆れるなよ。有子はお前のことだってちゃんと愛してるって。俺ほどじゃないけどな」

 瀬能は苦笑する。

「知ってるよ。俺が大学の学食で有子にカレーライスぶっかけた時、彼女ちょっと困った顔をしただけで少しも怒らなかったんだ。どうしてか分かるか?」

「さあ。あいつは高山の罵詈雑言を浴びても可愛いって許す女だからなあ」

「俺がお前のためにやったことだからだよ」
「はあ?」

「同じ学部にいた地元出身のやつから教えられてたんだ。文学部の宮本有子は中学校時代からお前に付きまとってるストーカーだって」

「なんだよそれ!」
 興奮する太郎を瀬能はなだめる。

「当時の俺はそれを素直に信じて、有子にお前が迷惑してるからストーカーはやめろって忠告しに行ったんだ。でも有子は俺にそんなこと言われる筋合いはないって眉一つ動かさなかった。だから腹が立って、カレーをひっくり返してやった。
 でも彼女は怒らなかった。俺がお前のためにやったことだったから。今考えれば恐ろしいことだよな。有子はやられっぱなしで済ます女性じゃない、彼女に喧嘩を売って二倍三倍返しにされてきたやつらを何人も知ってるよ」

「当たり前だ。俺の親友だからな」
 はいはいと、瀬能は熱燗を飲み干す。

「そういえば、用意した指輪はどうしたんだ?」
「ああ。有子にやった」
「受け取ってもらえたのか!?」

「あいつそういうところは割り切れるやつだから。あの指輪、マジで給料の三ヶ月分だぜ? 捨てるのもったいねえし、あいつを傷付けて怒らせた慰謝料だよ」

 瀬能はおおよその値段を頭の中ではじき出す。太郎は有名なソフトフェア開発会社に勤める有能なプログラマだ。給料だってそれなりの額をもらっているはず。

「でもいくらいい物でも売ったら二束三文だろ?」
「リフォームしてファッションリングにするって。リフォーム代も俺持ち」
 普段、有子は男に物をねだるようなことはしない。食事だって割り勘だ。そのことをよく知っている瀬能は手を叩いて笑った。

「ははは、有子の怒り具合がよくわかるな」
 太郎はぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜて肩を落とす。

「貯金は減るし、親からも怒られるし、散々だぜ」
「ああ。よりによって両親の前で揉めたんだったな」

「あれは、はっきり断らなかった有子も悪いと思う。それで親父からはもっと相手のことを考えなさいって説教されるし、おふくろからはせっかく有子を娘に出来るチャンスだったのにって拗ねられるし」

「ま、その程度で済んで良かっただろ」
 にやにやしながら瀬能が訊ねると、太郎は店中の人間が見惚れるような表情で笑った。

「そうだな」

#2 the other side of (5)

 友人の斉藤太郎は、よく言えば天真爛漫天衣無縫、悪く言えば傍若無人な、けれどもそんな所ですら魅力に思えてしまう男だった。

 彼は日本人の父親とフランス人の母親の間に生まれたハーフで(いや、半分という言い方は彼には相応しくないだろう。ここはダブルと言うべきか)、太郎と名付けたのは結婚を機に日本文化に傾倒した母親だという。あの顔で古き良き日本の長男の伝統的な名を名乗られると、正直違和感を感じざるを得ないのだが、そんなことは斉藤の魅力を一ミリだって曇らせるものではなかった。

 初めて彼を見かけたのは大学の入学式の時だ。彼はただそこにいるだけで、無自覚にも出席者の視線を釘付けにした。俺もまた彼に魅せられた一人である。幸いにも彼とは学科が同じで、入学後しばらくして、俺は斉藤の友人となることができた。

 この辺りは斉藤の地元らしく、学科には斉藤の中学時代や高校時代の知り合いが山ほどいたが、斉藤は彼ら取り巻きをあまり相手にはしなかった。斉藤の周囲には常に人が押し寄せていたが、腹を割った話の出来る友人というのは思いのほか少ないようであった。

 彼女のことを初めて耳にしたのは、鬱陶しい梅雨の季節がようやく終わりを迎え、気象庁が梅雨明けを宣言した翌日のことだった。宮本有子。同じ大学の文学部に籍を置く二年生だという。斉藤は一年浪人しているから、同い年ということになる。

「信じらんない。ずうずうしく大学まで追いかけてくるなんて。太郎くんもいい迷惑よね」
 話が出たのはちょうど斉藤が席を外している時だった。

「その子がどうかしたの?」

「追っかけよ、太郎くんのファン。っていうか、ストーカー? 太郎くんの彼女だと思い込んで、中学の時からずっと彼の周りをうろついてるの。私も中高と一緒だったけど、ブスだし暗いしスカートとかこんな長くて、いっつも端の方で本とか読んでて。超キモイ子だった」

 斉藤が戻ってくると、その子は宮本有子の話はやめて、夏休みに計画している旅行の話題に転換した。

 俺はこっそりと斉藤を見る。洗いざらしのシャツにジーンズ、ありふれたスニーカーという格好なのに、斉藤はいつだってファッション誌から抜け出してきたようにきまっている。日本人より色素の薄い髪と目、ホイップした生クリームのような白くなめらかな肌はその辺の女よりよほど美しく、ふとした瞬間に見せるどこか陰のある表情は、男の俺でさえどきりとしてしまう艶がある。これほどに美しい男ならば、ストーカーの一人や二人いても不思議ではないだろう。

 その日の帰り道、駅への道すがら俺は斉藤との会話の中で、ふと彼女の名を口にした。

「斉藤、お前、宮本有子って子に……」

 ストーカーされてるって本当か。そう訊ねるつもりだったのに、斉藤の鋭い視線を前にして口が最後まで動かなかった。

「瀬能、あいつのこと知ってんのか」
「い、いや、今日お前の同中の子がその子のこと話してて」

 迷惑してるなら、俺がどうにかしてやろうか。そう言うつもりだった。親戚には警察官や弁護士をしている者もいる。

 しかし斉藤は険しい表情をしたまま一言言い捨てた。

「あいつには関わるな」

 俺はそれを、「これ以上事態を悪化させないためにもあいつを刺激しないでくれ」という意味に採った。そして愚かにも、友人として彼が困っているのを見過ごせないという滑稽な正義感に燃えてしまったのである。



 それから、俺は昔の斉藤を知る人間に詳しく話を訊いて回った。

「宮本さん? ああ、別に普通の子。斉藤君と仲良いんだっけ?」
「違うよそれー。あの子が勝手にそう言ってるだけで、斉藤君は相手にもしてないって聞いたよ」

「そうなの? 私高校の時同じクラスだったけど、あの子そういう子だったんだ」
「斉藤君が迷惑してるの学校中の子が知ってたから、斉藤君の友達とかによく校舎裏に呼び出されて注意されてたよ」


「ホントずうずうしい子よね。側にいたって不釣り合いなだけなのに」
「家も近いんだよねえ。バレンタインにチョコあげに行った子が、近くのアパートに入っていくの見たって」

「げっ、まさかわざわざ近所に引っ越したのお?」
「ええー、高校生だし流石にそこまでは無理っしょ?」


「本人は友達だとか言ってたけどねえ」
「完璧無視されてたよ。相手にもされてないって、早く気づけよって感じ」
「見てて痛かったよね。調理実習で作ったお菓子とかあげちゃったりして」

「即ゴミ箱行きでしょー。何が入ってるか分かったもんじゃないし」
「いやいや、太郎くん優しいもん。とりあえず持って帰るだけは持って帰ってたっぽいよ」

 うそー、斉藤くん超優しい、彼女になりたあい、なんて合唱する。俺は苦笑いして席を立った。斉藤はころころ女を変えるが、どれもこれも相当の美人ばかりだ。見たところ目の前の彼女らでは希望はなさそうだ。

 翌週、俺は文系棟まで足を運んだ。文学部向けの講義に紛れ込み、幾人かに話しかけて目的の人物を捜す。源氏物語だか枕草子だかの講義で見つけることが出来た。

「宮本さん? ああ、あの前の列に座ってる子だよ。一年の時教養のゼミで一緒だったから間違いないよ」
 一見するとごく普通の女だった。俺は彼女の斜め後ろに座り、講義を聴くふりをしながら彼女を観察した。

 顔立ちもスタイルも平凡、化粧はしているが髪はただ一つに結っただけで、服装は安っぽいTシャツにジーンズ。冷房の効いた室内なのに背中に汗染みが出来ている。たまにあくびをするが、講義は真面目に聴いているらしい。俺にはさっぱり理解できない内容を、生真面目にノートへ書き取っている。

 ふと机の上に置かれた携帯電話を見て鳥肌が立った。斉藤と同じメーカー、同じ機種、同じ色。ストラップまで同じだ。斉藤の好きなメンズブランドが去年のクリスマスに限定で売り出した物で、どこの店舗でも一日で完売してしまったという。斉藤が自慢していたからよく覚えている。

 気持ち悪くなって、俺は講義の途中にも関わらず席を立った。前の方に座っていたから教授に睨まれたが、軽く会釈をして講義室を飛び出す。学科の女の子たちが言っていたことが分かったような気がした。



  ***



 そのまま弁護士の伯父に頼んで法的手段に訴えても良かったのだが、その前に直接話して言いたいことがあった。しかし彼女と立ち向かうには少し時間が必要だった。ストーカーという、これまで出会ったことのない未知の存在と接触を持つ。恨みを買ってどんな報復をされるか、想像できないのが恐ろしかった。

 その内に季節も移り変わり、俺はとうとう宮本有子と対峙する決意をした。講義が終わると同時に中央の学食へ向かう。この数日彼女の行動パターンを調べた結果、彼女は毎日中央の学食でお昼を摂っていた。時には友人らしき人物といることもあったが、彼女の評判など配慮してやる必要はない。みんなの前で本性を暴かれ、斉藤が受けてきた苦しみの一部でも感じればいいと思った。

 彼女は一人でいた。混雑した学食の、端の方の席に座り、斉藤と同じ携帯をテーブルに置いてうどんをすすっている。

 俺はとりあえず適当にカレーライスを注文し、精算を済ませて彼女の斜め前の席へ座った。

「あなたが宮本有子さん?」

 そう声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上た。こうして正面から彼女の顔を見るのは初めてだが、やはり到底斉藤とは釣り合いそうにない凡庸な顔立ちの女だった。今日も安っぽい着古したTシャツにジーンズ。斉藤に見て欲しいなら、少しは自分を磨く努力をしたらどうなんだろう。

「どちら様ですか」
「工学部一年の瀬能吹雪。斉藤太郎の友達」

 彼女は「ああ」と小さくつぶやいた。俺のことを知っている顔だ。斉藤のストーカーなら、斉藤と仲の良い俺のことも知っていて不思議ではない。

「何かご用ですか」
「ちょっと興味を引かれてね」
「はあ」

「中学の頃から彼女面して斉藤に付きまとってるって聞いたけど?」
 彼女は不快そうに顔をしかめる。

「あいつがそう言ったんですか?」

「斉藤? 違うよ。斉藤のクラスメートだったって奴らから聞いた。ここ彼の地元なんでしょ? 知り合い多いよね」

 だから、誤魔化そうとしたって無駄だ、と目を細める。法的手段に訴えれば、彼女の行為を証言してくれる人間なんて山ほどいる。

「斉藤に聞いても不機嫌になって黙り込んじゃうし。いい加減付きまとうのやめてあげなよ。君と彼じゃあどうやったって釣り合わないだろ。ストーカーって立派な犯罪だよ?」

 最後通牒のつもりでそう言ってやったのに、彼女は肩をすくめ、人を馬鹿にしたような口調で答えた。

「斉藤は友達です。あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」

 友達だと。斉藤に付きまとって苦しめているだけのくせに、斉藤の中で俺と同じ地位にいると思っているなんて、なんて厚かましいんだろう。

 ダメだ。話していても会話が通じない。ストーカーなんてそんなものなのだ。
 俺は苛立ちをそのまま彼女にぶつけるように叫んだ。

「お前みたいな女に付きまとわれて斉藤は迷惑してるんだよ!」

 ひっくり返したカレーはまともに彼女にかかったけれど、斉藤を苦しめた報いだ。そのまま踵を返して食堂から出て行った。



 斉藤が血相を変えて俺の元へやって来たのは、それから数日後のことだった。

「斉藤。どこ行ってたんだよ、昼みんなで外に食いに行ったのに。ほら、最近出来た交差点のカフェのランチ。中々旨かったよ」

 行ってみたいと言い出したのは斉藤だったのに、忘れていたのだろうか。ふと斉藤が本を数冊抱えていることに気付き、納得する。

「レポートの資料か。図書館にいたんだな。あそこ携帯の電波悪いからな、電話したんだけど。昼は一人で食べたのか?」

「……いいや。二人で食ったよ、有子とな」
「ゆうこ……?」

 今の斉藤の彼女の名ではない。他に彼と二人きりで食事ができるほど親しくしてもらっている子がいただろうか。他学部の子か。

「宮本有子。知ってるだろ」
「え……」

 斉藤は怒りを滲ませた目で俺を睨んでいた。どういうことだろう、斉藤がなぜ彼女と食事を? 無理矢理連れて行かれたのだろうか。斉藤は女に優しいから、ストーカーでも自分を慕ってくれている女を突き放せなかったのだろう。それでこんなにも不機嫌なのだ。

「それは災難だったな。逃げてくれば良かったのに」
 そう言って肩を叩くが、斉藤に振り払われる。そして胸元を掴まれ締め上げられた。

「さ、いとう……!?」
 斉藤は俺より十センチ背が高い。顔を寄せられつま先立つ。

「あいつにカレーぶっかけたって本当か」
「え? ああ、でも……」

 それだけじゃなくちゃんと弁護士に相談してなんとかするから。そう続けるはずだった俺は、次の瞬間堅い木の机に叩き付けられていた。

「斉藤くん!?」
「だっ、大丈夫!? 瀬能くん血出てる!」

 殴られたのだ。そう知覚できたのは、俺を見下ろす斉藤の拳に血が付いていたからだった。痛みはない、ただ左の頬が熱い。

「理由は聞かない。あいつが言いたがらねえからな。けどあいつは俺の大事な親友だ。あいつを傷付けるなら俺が許さねえ!」



 斉藤が部屋を出て行ってしまった後、近くにいた男子学生が立つのに手を貸してくれた。

「馬鹿だなお前、宮本に手え出したの? あいつ普通じゃん。お前ならもっといいの、選り取り見取りだろうに」

 どうやら痴情のもつれが原因だと勘違いしているらしい。

「血、出てるぞ」
「ああ……」

 指摘されて、ポケットからハンカチを出し、血を拭った。頭が急に冷静になり、途端に頬が痛み出す。

「神山、お前斉藤と同じ高校だったよな?」
「ああ。三年の時同じクラスだったよ」
「宮本有子って……斉藤のストーカーなんじゃなかったのか」

「はあ?」
 神山は呆れ返った顔で俺を見た。

「お前、嫉妬に狂った女どもの与太話、信じたわけ?」
「俺はちゃんと男からも話を……」

「ハイハイ。馬鹿だねえ、斉藤の取り巻きから話聞いたって、そりゃあ宮本のこと悪く言うだろうよ。斉藤、宮本のこと大好きだもん。学校じゃあほとんど話さないし、目も合わさなかったけどさ、集会なんかで一緒になるとかならず目で追ってんの、子供みてえに。宮本にはガン無視されてたけどね」

 と、笑う。

「つき、あってるのか?」

「そういう噂はずっとあったけどな。斉藤は昔っからあの通り、近辺の高校の可愛い子片っ端から食ってたし、浪人してる時くらいじゃねえかな、彼女いなかったの。あ、俺予備校も一緒だったのよ。宮本は目の前で斉藤が女といちゃついてても全然気にしてなかったし、斉藤の言うとおり親友ってやつなんじゃねえ?」

「……そうなのか」

 穴を掘って埋まりたい気分だった。結局の所、何の根拠もない噂話に踊らされ、斉藤を助けるつもりで彼の友人を傷付けた。頬の痛みはその結果だ。俺は愚かにも斉藤を怒らせただけだった。

「なあ、瀬能、宮本になにやったの?」
「……学食でカレーぶっかけた」
「うわ。斉藤に殴られるくらいで済んでよかったなあ」
「え?」

「高校の時の暗黙の了解。宮本には手を出すな。三倍返しは当たり前ってな。ホワイトデーかよ」

「それって……斉藤が?」
 今のように仕返しにやってくるということだろうか。

「いや、基本宮本は斉藤になにも言わないから、斉藤が出てくることはほとんどねえよ。怖えのは宮本の方。あいつ、見た目は普通だけど、売られた喧嘩には容赦しねえの。あいつに手え出して転校してったやつ、三人は知ってる」

「……まさか」
 俺の会った宮本有子は、どこにでもいそうな普通の女性だった。神山は少し大げさに言っているのだろう。

 しかし、神山はあくまで真面目な顔をして俺の肩を叩く。

「お前、運が良かったよ」



  ***



 謝罪に行かなければと思っていたけれど、中々踏ん切りがつかなかった。どんな顔を晒せばいいと言うのか。彼女はきっと俺のことなど顔も見たくないと思っているだろう。

 しかしいつまでも無為に時間を過ごしているわけにもいかない。重い腰を上げて、俺は中央食堂へ足を向けた。この時間帯に彼女が学食にいることは、前もって斉藤から聞いていた。

 彼女はこの前と同じ席に座っていた。俺は空いてる列で適当に食べ物を買い、彼女の前に座った。

「宮本さん」
 呼びかけると、彼女は顔を上げて軽く会釈した。

「こんにちは」

 謝罪しようにも上手い言葉が出てこなくて、とりあえず目の前のうどんを一口すする。カレーがぴりっと口の中に染みた。しまった、何も考えずに買ったが、あんなことがあったのにカレーなんて印象最悪じゃないか。

 ちらりと彼女を見ると、やはり不機嫌そうな顔でこちらを見ていた。どうしてよいか分からなくなって、口元の傷を撫でる。

「失敗したな。斉藤に殴られたところにしみる」
 そう言って微笑んでみるが、彼女は興味なさそうに片眉を上げただけだった。

「なにかご用ですか」
「ええ、謝罪に来ました。先日は色々すみませんでした。あなたのことを誤解していて」

 頭を下げる。が、彼女は一つ肩をすくめただけで、これといった反応も見せない。俺のことなど気にもかけていない風に、短く言う。

「なれてますから」
 その言葉に彼女を悪く言う斉藤の取り巻きたちの会話を思い出して、俺の方が悲しくなった。

「なれてるって、よくあるんですか。あんなことが」
「カレーは初めてでしたけど」

 返す言葉もない。

 そういえば、あれだけまともにカレーをかぶったのだ、服だって無事ではいられなかっただろう。ああ、なぜ今まで気付かなかったんだ。謝罪しなければという気持ちばかりが急いで、お詫びの品の一つも買っていなかった。

「汚した服は弁償します!」
 しかし彼女は首を横に振る。

「どうせ安物ですから」
 それでも、このまま済ませるわけにはいかない。

「弁償します」
 重ねて言うが、彼女は少し笑っただけでうなずいてはくれなかった。

「……斉藤は知ってるんですか、あなたがそんな目にあってるって」
「知ってることも知らないこともあります」

「俺のことも、あなたが告げ口したわけじゃないそうですね。なんで何も言わないんですか」
 彼女は首をかしげる。

「あいつは綺麗でしょう?」
「ええ。学科の数少ない女子はみんな彼に夢中ですよ」
「綺麗なものを愛でるにはそれなりの代償が必要だと思いませんか」
 予想外の答えに、虚を突かれる。

「は……だから何も言わず我慢してるんですか?」
 彼女は可笑しそうに声を上げて笑った。

「売られた喧嘩ならちゃんと相手をしますよ。私、そんなお人好しでもか弱い子でもありません」

「でも俺の時は……」

 何も言わなかった。カレーをひっくり返した瞬間、彼女はほんの少し顔をしかめただけで、俺を睨みもしなかった。

 ふと神山の言葉を思い出した。

『あいつ、見た目は普通だけど、売られた喧嘩には容赦しねえの』

 ならばなぜ俺には何も言わなかったのだろう。斉藤がこの一件を耳にしなかったら、彼女はそのまま俺を放っておくつもりだったのだろうか。何の報復もせずに。

 報復……あっ、と俺を殴った斉藤の顔が浮かんだ。

『あいつは俺の大事な親友だ。あいつを傷付けるなら俺が許さねえ!』

 じわり、と胸の奥から何かがにじみ出る。甘いような苦いような、楽しいような悲しいような。彼女は、彼女はもしかして。

「俺が斉藤のためにしたことだから、許してくれたんですか」



  ***



 数日後、俺は愛用しているブランドの店舗を訪れた。すぐに顔見知りの男の店員が気付き、やってくる。

「瀬能さん、お久しぶりです。今日はどういった物をお探しですか?」
「ああ、今日は自分の買い物じゃないんだ。女物を見たいんだけど」

 そう言うと、店員はにやりと笑って女性の店員を呼んでくれた。ここの店舗はフロアを半分に区切ってメンズとレディースを両方置いているのだが、俺がここで女物の服を買うのは初めてだった。

「カットソーとジーンズ、二十歳くらいの女性に人気のある物で、サイズは……」

 頭の中に彼女を思い浮かべる。見ただけでは大まかなサイズしか分からないが、お世辞にもスレンダーとは言い難い体型だったと思う。太っていると言うよりは健康的な。

「こちらのカットソーは雑誌にも掲載されて、若い女性に人気がありますよ」

 若い女の店員はそう言うと、リボンの付いた七分袖のカットソーを広げて見せた。ふわっとした生地で、袖にレースが付いている。恋人が着ていれば可愛いと思うだろうが、地味な顔立ちの彼女では服に負けてしてしまうだろう。

「もっとシンプルな、落ち着いた感じの物がいいかな」
「ではこちらのリボンタイのタイプで、お色は黒の……」

 考えてみれば他人の服を選ぶというのは初めての経験で、今までの恋人にだってそんなことはしたことがなかった。身だしなみに気を遣う女性ばかりだったし、そういった女性は自分に似合う物をちゃんと分かっているから、服を買うのに付き合わされても欲しい物は自分で決める。ただ試着した姿を「可愛いね、似合ってるよ」と言って欲しいだけなのだ。こうして自分のイメージから彼女に似合う物を、着て欲しい物を選ぶというのは、中々に新鮮で楽しいものだった。

 結局俺は、スクエアカットのサーモンピンクのカットソーを選んだ。シンプルだが袖がシフォンになっていて、女性らしい柔らかい印象を感じられる。ジーンズはあの日履いていた物に近い色のストレート。後日でもレシートを持っていれば裾上げに応じてくれるという。贈り物にレシートを付けて渡すわけにはいかないと言うと、代わりにその旨を記したカードを付けて包装してくれた。

 買った物は斉藤に預けた。彼女の連絡先を知らなかったし、面と向かって渡しても受け取ってもらえないような気がしたからだ。

「次に彼女と会う時でいいから、渡しておいてくれないか」
「ん……どうせ今日も会うから、夜渡しとく」
 その服を着ている彼女を一番に見られないのがとても残念に思えた。

#3 蛇足の蛇足の蛇足→携帯電話の真相

 夕食の準備をしている最中に、鞄に入れっぱなしにしてあった携帯電話が鳴った。

「有子、電話ー」
 勉強中の太郎が叫ぶ。

「今手が離せないから、持ってきて」
 太郎はよっこらせと重い腰を上げて、携帯を運んできた。

 濡れた手で通話ボタンを押し、肩と耳の間に挟む。冷水の中でゆで卵をむいていて、両手がふさがっていた。

「はい宮本です」
『兼山です。教養で同じゼミの』
 用件はゼミの忘年会のことだった。そういえばまだ出欠の返事をしていなかった。

「すいません。遅くなって。出席します……っ!?」
 背後から回ってきた手がセーターの裾から進入し、腹を撫でた。紅茶色の頭が首筋に埋まり、べろべろと舐め始める。

(ちょっと、電話中に懐かないでよ!)

(台所に立ってる女ってなんか襲いたくなるんだよなあ)

『宮本さん? どうかしました?』
「い、いえ」
 思いっきり足を踏みつける。

(痛てっ)

 太郎の身体が跳ねた。

「ちょっと犬が……えっと、お店のことでしたよね。大学の近くの『雅』……ええ、あの道沿いの。分かります」

『六時開始で二時間の飲み放です。会費は一人三千円で、最初に集めるのでお釣りが必要ないようお願いします』

「はい。わざわざすいません。お疲れ様でした。……っ!!」
 通話が切れる瞬間を見計らって、犬が首筋に噛みついた。

「ちょっと! なにする……」
 反射的に振り返る。その瞬間、耳から離れた携帯電話が宙を舞う。

「あ」
「げっ」

 伸ばした手は間に合わず、無情にもそれは、ボチャン、と間抜けな音を立てて殻の浮いたボールの中へ落ちた。

 折しもクリスマス直前。携帯電話も品薄になる時期に起こった不幸な人為的事故だった。



 某家電量販店一階、携帯電話売場。親子連れやカップルで賑わう中、私は身長百九十の財布を持ってそこにいた。

「悪かったって、有子ぉ」
 携帯を見る私の後ろで、財布が何かしゃべっている。残念ながら私には日本語しか分からないのだ。

「こうして弁償するって言ってるだろ。いつまでも無視するなよー。受験生が大事な時期に買い物に付き合ってやってんだからさ」

 誰も頼んじゃいない。というか、帰れ受験生。鬱陶しい。

「いいじゃん三年も使ってたんだろ。そろそろ買い換え時だったんだって」
 私は肘鉄で財布を黙らせた。

 冗談じゃない。三年も使っていたのはそれだけあの携帯に愛着があったからだ。あの微妙なウグイス色は、会社創立二十周年を記念して期間限定で作られたもので、あんなマイナー色の携帯、きっと二度と作られない。

「いてて……なあ、わざとじゃなかったんだからさ。有子」
「うざい。懐くな。離れろ」
「てめっ、こっちが下手に出てやってんのに」

「へーえ、それはわざわざすいませんでしたね。どうぞ今から帰って勉強に励んで下さいよ。センターも近いことだし」

 まあ、とはいえ実際の所、太郎のことはもう怒っていなかった。あの携帯は電池も寿命が切れかかっていたし、カメラ機能も壊れていた。普段は電話かメールくらいでしか携帯を使わないから、これまで別段不便はなかったのだが、そろそろ買い換えようと思っていた時期でもあった。弁償しろなんて言ったのも、腹立ち紛れの冗談だ。

 拗ねた太郎を置いて、私は隣の棚へ移動した。私が離れた途端、ミニスカートの宇宙人みたいな衣装を着た販売員たちがハイエナのごとく太郎に襲いかかる。仕事中だろうに。

 そこは最近出たばかりの最新機種を集めた棚だった。並ぶ値段を見て顔をしかめる。毎日使うものとは言え、携帯電話は高価な玩具だ。家計を預かっている身としては、バイトもしていないのにこんな高価な物をぽんとは買えない。

 機種が古くなればそれだけ価格も下がる。この棚は私には分不相応な場所のようだ。しかしすぐには太郎のいる棚に戻る気にはなれず、目の前の携帯を適当に手にとって機能を確かめた。今さら操作方法を覚え直すつもりはない。前使っていた携帯と同じ会社の機種がいい。

「そちらの商品はデザイン機能を重視していまして、持っていただくとわかりますように人間工学的に長時間持っていても手が疲れないように設計されているんですよ」

 横から声をかけられて、見るとスーツの販売員が立っていた。

「先月発売されたばかりで、現在品薄となっているのですが、ブルーはまだ在庫がございます」
「はあ」
 気のない返事。

「機種変更ですか? 以前の機種は何年ご使用で……ああ、でしたらこのお値段になりますよ」

「え。随分安くなるんですね」
 約半額だ。これなら出せなくはない。いや、最新機種でこれなら古い機種ならもっとやすくなるということか。

「同じメーカーの機種ですと、こちらはカメラ機能が充実しておりまして、デジカメ並の画素数なんですよ。残念ながらただ今入荷待ちですが……」

「一つ前のシリーズは在庫ありますか?」
「人気のカラーはほとんど入荷待ちですね。申し訳ありません」

 やはりこの時期はクリスマスプレゼントに携帯を買う人間が多いらしい。持っていた見本携帯を棚に戻した。

「有子ー!!」

 大声で名前を呼ばれて顔をしかめる。隣の棚から女の子に囲まれた太郎が商品を片手に来い来いと手を振っている。

「ちょっと静かにしてよ。なに」
「俺、これがいい」

 さらさらとした手触りのフラットな携帯。開け閉めすると表面がぼんやりと光る。さっきの棚にも同じようなやつが並んでいたから、これも最近出たばかりの新しい機種なのだろう。

「いや、あんたの携帯は去年買い換えたばかりでしょ」
「気に入ったんだもん。いいだろ、自分で稼いだ金で買うんだから」

 太郎は平然と罰当たりなことを言って笑った。高校時代にモデルで荒稼ぎした貯蓄はまだ尽きないらしい。いったいいくら儲けたんだろう。

「あっそ。じゃあ好きにすれば」
 ふいっ、と私は別の携帯を手に取る。ところがよく見る前に太郎に取り上げられた。

「あんたもコレにしろよ!」
「はあ?」
「せっかく一緒に買い換えるんだからさ、おそろいにしようぜ」

 せっかく? それは文章のどこにかかるんだ。意味が通じていないと思うのは私だけか、受験生が。

「ガキじゃあるまいし、なんであんたとおそろいの携帯持たなきゃいけないのよ。おそろいなんかにしたら、あんた絶対、間違えて私の携帯持って帰るわよ」

 太郎は口をとがらせる。

「そんな間抜けじゃねえよ」
「この前左右違う靴下履いてたくせに」
「あ、あれはおふくろが適当に仕舞っとくから……!」
 それでも普通履いている時に気付くだろう。長さも違ったんだし。

「とにかく! 金出すのは俺。決定権は俺にあるの!」
「は……? いや自分で買うし」
「弁償しろって言ったのあんただろ。撤回不可だから!」

 そう言うと、太郎は両手に見本の携帯を持ったままカウンターへ走って行ってしまった。あんたそれ、ディスプレイ用……。



 携帯電話を設定するのに三十分ほどかかった。結局色まで一緒の白だ。正確にはシルクなんとかホワイトらしいが、まあとにかく白い携帯だった。

 水に落として故障させてしまったため、電話帳は全て消えてしまっていた。必要なアドレスは家の住所録に書き込んであるから、暇を見て少しずつ登録していけばいい。とりあえずまっさらな電話帳に一件だけ、太郎のアドレスを登録した。

「なあ、ついでにストラップもおそろいにしようぜ」
「私ストラップ付けない人だから」

「一つくらいいいだろ。クリスマスプレゼントにするからさ。ちょうど欲しいのがあったんだよなー」

 そう言ってデパートに入っていく太郎にため息をつく。私とあんたは、今まで一度だってクリスマスプレゼントのやりとりなんてしたことないだろうが。

 太郎はメンズファッションのフロアにあるお店でストラップを二本買った。牛革のショートストラップにブランドロゴと雪の結晶型のチャームが付いている。スワロフスキーのクリスタルをはめ込んだクリスマス限定品、らしい。

 包装を断って、仰々しく箱に収まったそれを一本渡される。

「ほら、ちゃんと付けろよ」
「……後で」
「今付けろ。俺も付けるから」
 渋々細いひもを携帯に通す。店員の目が痛い。

「ん? あれ、よ、っと……あれ?」

 太郎は携帯ストラップ一本通すのもままならず、左手に携帯、右手にストラップを持って踊るように身を捻っていた。

「不器用……」
「うるせえっ。有子、やって」
 十秒で済む。
 あれ。

「よく見るとクリスタルガラスの色が違う」
 店員がにこやかに言う。

「こちらはカップル向けのペア商品になっております。男性用のストラップは青、女性用ストラップはピンクのクリスタルで、そのほか男性は携帯をポケットに入れて持ち歩くことが多いため、全体的に少し小さめに作ってあるんですよ。女性用のストラップはペアで買った場合にしか手に入らないんです」

「…………」
「だ、だってペアで買った方が安かったから」

 白々しい。私のストラップのクリスタルは青だった。別にそれはいいのだが、こいつ、初めからピンクのストラップが欲しくてペアの相方を探していたのだ。

 ピンクだろうがオレンジだろうがパープルだろうが太郎に似合わない色はない。私もメンズだろうがレディースだろうがあまり気にしない。しかし欲しいなら初めから正直に言えばいいものを。

 携帯を鞄に放り込む。

「帰るわよ」
「えっ、メシ食ってこうぜ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ受験生が」

 どういうわけか、あれだけプレテストの結果で凹んでいたのに、翌日になって太郎はケロッと勉強を再開した。今までのノイローゼが嘘のような集中力で。

「どうせ今日もウチに来るんでしょ。センター過去問で三科目平均八割以上出せたら好きな料理作ってあげるわよ」

「マジで?」

 どうせ本試の過去問なんて予備校で何度もやらされているのだ。太郎なら八割くらい平気で取るだろう。

 太郎がバス停へ向かって走り出す。

「有子っ、何してんだよ。早く帰ろうぜ」

 ……調子のいいやつだ。